ブログ・エッセイ


読書、読書家、ディレッタント、図書館、収書

昨秋、久しぶりに古くからの友人に会って楽しく話をした。氏は読書家というにふさわしく、なんというか、うらやむべきディレッタント、敬意をこめてそう言いたいと思うのだが、わたしも斯くありたしと思ったりもした。
少し考え起こしてみると、わたしとて、大阪府立図書館に司書として勤め始めた時期には、そこそこの読書家でもあったと思う。就職してはじめての配属が収書係という部署で、毎週出入りの書店から搬入されてくる新刊書から選書する仕事をした。そしてまた、委託配本から漏れて書店から搬入されなかった図書などは、さまざまな新刊情報や新聞・雑誌の書評・新刊紹介、図書館に送られてくる新刊案内などに目を通して別途に注文したりもして図書館の蔵書構築に励んだ。学生の頃から出版や出版社、書店の仕事にも興味を持っていたことからこれは楽しい仕事だった。またそうした仕事なので新刊書にはざっと目を通したし、時には通読したりもした。仕事が半分ではあったが、楽しみも半分あって多くの本を読んだ。
この大阪府立の中之島図書館には何十万冊もの図書を所蔵していて、本を読む、調べるには実に恵まれた環境にあった。大学時代には、どうしても自分の関心領域、古い言葉でいうと問題意識の強い分野の本に偏りがちであった自らの読書が、図書館に勤めてからは、世にはさまざまな書物がありまた時代ごとの問題意識に沿った著述があるのだということを身にしみて感じた。
ことに中之島の図書館は明治37年の開館で、新旧の資料が書庫に集積されてある。いったん書庫に入ってみると、そこには、時代ごと地域ごとの、文献宇宙とでもいってよいような空間が広がっている。書庫の放つそうした時代の空気感、書物の熱(いき)れとでもいうものがわたしは好きだった。自分はよい場所にいるなと、実感したりもした。

そして、このように読書家の端くれでもあったと自認する自分が、読書家と言えなくなったのは何時からだろうかと考えてみた。図書館に就職して何年目か、まだ収書係にいたとき、図書館の刊行する紀要に、「図書館の主体性とは」という短い文章をはじめて書いた頃はまだまだ広範囲の本をよく読んでいたと記憶している。
それ以降にも少しずつ文章を書いて発表してきたのだが、そんな読書の範囲が偏りを見せ、すぼまって、いわば読書の豊かさというものを失ってしまったのではないかと思い当たるのは、「満鉄の図書館のこと」や「満洲に遺された蔵書のこと」を調べて書き始めたあたりからではないかと考えた。
大阪府立の司書時代は、基本的には9時-5時の勤務で働きながら、資料を調べたり書いたりしていたことから、どうしても自分の時間が惜しくて、その書くべき主題の周辺の資料ばかりを読んでいた。本を読むことが、わたしの考える「読書」と言えなくなったのは、きっとその頃からだろう。
図書館に勤務して25年目に、大学時代の運動関係の友人に誘われて大学の教員に転職したのだが、それ以降も相変わらず満洲の図書館や外地に遺された蔵書のことを調べていた。大学にかわって少しは時間の余裕ができたからといっても、いわゆる「読書」に時間を割くことはなかった。これもまず、自分の力量のなさに起因することでもあった。
時には、こんなことではつまらないではないかと思い直して、以前に読んだ臼井吉見『安曇野』や足立巻一の『やちまた』などをゆったりした気分で読み直してみたりもするが、なかなか文頭のディレッタント氏のような読書家にはなれない。
そして今はまた、終戦の前に満洲に渡り来て国策会社の嘱託などをした木山捷平や壇一雄の小説を読んだりしている。なんというか、「爲にする読書」というのであろうか、なんだかなあ、って気分がぬぐい切れない。
(2018年1月12日 記)