ブログ・エッセイ


建国大学、創設要綱案、建国大学図書科、『北支出張調査復命書』、稲葉岩吉、松浦嘉三郎

建国大学創設期の図書館について少し書いてみる。
建国大学は、1937(康徳4)年5月に非公式の建国大学創立委員会が東京でもたれ、6月には建国大学創設要綱案が定められ7月創設委員会開催、8月5日に建国大学令公布により創設された。この建国大学設立要綱の「四.要領 3図書館の開設」には、成るべく速やかに新京に大学図書館を建設するとあって、そのため北平の図書館(外務省文化事業部)、大連満鉄図書館および満洲国内に散在している文献を蒐集移管してこれを基礎とし、亜細亜全般にわたる図書を蒐集整備する、と述べられている(『建国大学年表』) 。
こうした建国大学図書館草創期の蔵書構築の方針をもとにして、関東軍今村均参謀副長は、「対支文化事業関係」の北京近代科学図書館などの漢籍について、必要な時にはいつでも返却することを条件に借用また模写したいと外務省に申し入れている(「昭和12年7月7日付 満洲国建国大学ニ北京科学図書館書籍利用方ニ関スル件」など『北京図書館関係雑件』)。ただこの申し入れ先の図書館は今村ら関東軍の思い違いで、漢籍を所蔵しているのは北京近代科学図書館ではなく東方文化事業総委員会の図書館であった。外務省側はこの錯誤を指摘したうえで、総委員会の蔵書は続修四庫全書提要の事業遂行のため必要であることから、その事業が完成した後に再度打ち合わせありたいと回答した。しかしながら関東軍側は、在北京の図書館の保管図書のうち「満蒙鮮特ニ清朝ニ関スル…図書文献等ノ譲受方交渉ノ爲」に稲葉岩吉教授・根本龍太郎助教授・国務院総務庁次長谷次亨らを派遣するので「建国大学創設ノ意義ニモ鑑ミ右資料中満側ノ希望スル物成ルベク割愛スル様」と強硬な姿勢は崩さない。
その後も幾度かやりとりがあり12月15日付で外務省側からは、東方文化事業総委員会図書館の蔵書は創設当初から図書館で展開する文化事業に活用するものであることから、満洲国側の利用については便宜をはかるものの該図書館の蔵書については譲渡しない旨の返答をおこなっている。このあたりの事情は、『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』の「橋川時雄」の項目に書いた。
さて一方の関東軍側だが、この外務省回答と同じ日付の12月15日には先の文書のとおり、稲葉岩吉らを新京から北京へと派遣し実情を調査視察させている。この時の稲葉らの復命書が高知大学の小島文庫に所蔵されているのでその内容をここに略記してみることとする(『康徳4年12月 北支出張調査復命書』 小島文庫189)。
出張したのは国務院総務庁次長谷次亨・建国大学教授稲葉岩吉・大同学院教授松浦嘉三郎・建国大学助教授根本龍太郎の4名である。出発は12月15日、その目的とするところは先の「建国大学創設要綱案」の図書館の項目にある通りのもので、北京に保存する資料を満洲国に移管する交渉をすることであった。まず16日には天津で北支派遣軍司令部大城戸三治大佐と面会する。大城戸大佐からは、軍は敵性を帯びたものは接収するが、文化機関などは敵性を帯びないことから接収しているわけではない、ただ紛失破損の恐れから「好意ヲ以テ保護管理」をしているだけであると言明される。稲葉らはこの大城戸の意向を了解して、軍の威力を借りることなく先方の意向を聴取するとの姿勢をもって臨むこととした。
こうした方針をもって稲葉らが調査したものは、1. 故宮に所蔵の資料、2.外務省所管の東方文化事業総委員会人文科学研究所図書館、であった。
故宮は12月5日から4日間調査をしている。ただ特務機関の紹介で出向いたことから、の故宮側はこころよくというわけにもいかず、十分な調査はできなかった。ただ現時点の調査では故宮の資料文物は、満洲国にとっては大きな価値を持つものではなく、仮に二、三の移管を受けたとしても日本軍が書籍文物をすべて接収したと非難されかねず、移管してもその整理に労力がいることから、いまの段階では南遷した文物や学者を北京に復帰させることが先決で、これら資料文物については静観するのが上策と結論づけた。
2.の東方文化事業総委員会の北京人文科学研究所図書館の蔵書については、近く続修四庫全書提要の編纂事業も一段落となることから、外務省に強く働きかけて満洲国へ移譲させるように運動すべきでありまたその可能性もあると述べる。またさらにこの図書館についての今後の方向性のひとつはこれら資料をもとにして支那文化研究所を設置すること、もうひとつはその資料をすべて国立北平図書館と併せて北平図書館に対する日本の発言権を強めるというものであるが、前者は、すでに日本には東京・京都と研究所が創設されており、現地の英米仏の対支文化事業と比べて日本のものは貧弱であり、大学規模の研究所の設置など、いまの予算規模ではとうてい及ばないと結論付けて退ける。後者の北平図書館との合併についても、中国側に好意的には見えるものの同図書館側との意見交換の結果、8割がた資料が重複していること、日本側の発言権が増大することに危惧をもっていること、などからこの合併策もとることができないと否定的である。
このように、北京人文科学研究所図書館を現状のまま北京に置いても文化的に貢献するのはまことに微小であり、むしろ満洲国への譲渡を請うて国立図書館の蔵書の基礎とすすることのほうがはるかに価値あると結論付ける。そしてその末尾には「満洲国トシテハ此ノ復命書ニ基キテ、直チニ東京外務省ニ向ツテ、ソノ譲渡方ニツキ極メテ熱意アル運動ヲ開始スベシ」と強く表明しているのである。
このように建国大学の蔵書の構築にあたっては、満洲事変後に関東軍が国立奉天図書館を創設したときと同様に、地道な努力をすることなく、接収・移管といった強引で強硬な手段をもって、蔵書の集積をはかろうとしていたことがよく見て取れる。
ただこの建国大学に附設の大図書館構想という建国大学案は、1938年8月の国務院会議水曜会議において、満鉄図書館の関係者も後押ししていた満洲の国立図書館を創設するとの民生部案と総合するかたちで決着をみたことから、建国大学の図書館構想は一気に後退することとなった。こうして創設されることとなった中央図書館の準備機関は、満洲国立中央図書館籌備処と称され、満洲国の政務の参考資料として満洲国政府・協和会諸機関に資すること、そして建国大学研究院や大陸科学院など研究調査教育機関の利用、さらには一般公衆の調査研究にも利用させるといった、建国大学にとっては不本意な機関となって実現した。そうしたことから、建国大学では、その図書館を附属図書館といわず図書科という部署として運営がなされたのであった。
付記:この稲葉らが北京で調査視察をしているちょうど同じ時期に、京都帝国大学教授の小島祐馬と清野謙次が「北支那派遣軍、外務省等ノ要請ニ由リテ、北支那文化工作ノ基本調査」(『復命書』)に出張してきていた。稲葉らは小島らと連絡をたもちその意見も聴取しさらにまた北京の文化人の意見も総合して検討したと述べていることから、この「極秘」の復命書も小島のもとに届けられ、小島文庫に残されたのであろう。(2017年4月2日記)