ブログ・エッセイ


筑摩書房、『展望』、出版のこと

京都府立図書館の取寄せeサービスというのが便利なので、京田辺の図書館に所蔵がなく、また非常勤先の大学図書館が持っていない本が必要な時にはこのサービスをよく利用させてもらっている。
また古い資料で、国会図書館でデジタル化されたもののうち自宅のpcからは見られないものは国会図書館の関西館に行く。関西館までは車で30分ぐらいだから下手な運転でもまず圏内かなと思ったり。とはいえデジタル化資料をpc画面で見るのはけっこう疲れるので、できれば朝から行ってのんびり時間をかけて見たいと思うのだが、関西館の食堂がどうにもいけてなくて、昼食が困る。やむなく家からおにぎりを持っていったりするが、なんとかならないものかな。でもあの利用者数では仕方ないところか。
そんなわたしの資料環境にあって、最近この便利な京都府立図書館取寄せeサービスで『筑摩書房の三十年』(昭和45年)を読んだ。久しぶりにおもしろい本に出合って嬉しかった。あとがきをみると和田芳恵の執筆だった。本書編輯にあたっては、出版関係者・執筆者・筑摩書房側などで座談会を行ない、その出席者は百人を超えているのだという。
いくつか興味深い記述があったが、そのうちのひとつ、筑摩という社名のこと。古田晃社長を支えた臼井吉見は、解放社とか改造社とか、なにか言葉自体に意味を持った名前には決してすまい、できればあまり意味のない名前でそれでも社会に印象が定着するような名前がいい、と考えたという。当初千曲書房と決めたのだったが臼井夫人のあやが、「センキョクと読んだりされないか、ならば筑摩でよいのではないか」と提案し、それに決まったのだった。夫人の一言で決まったというのも面白いことなのだが、それにしてもこうした臼井の感性をわたしは実に好もしく思う。それは戦後の『展望』の編輯にも底流で相い通じる感性なのであろう。
本書に、創業当時の筑摩書房のスケッチが載っていた。阿部合成のものとある。先般角館に出かけて、昼食に寄った蕎麦屋に飾ってあり興味を持った阿部合成である。なぜ阿倍のスケッチなのだろうかと読み進んでいくと、昭和16年8月、太宰治が『千代女』を筑摩書房から刊行するにあたって、太宰の古くからの友人阿部合成に装幀を担当したことによるのだった。
太宰は、古田晃社長に阿部を紹介するにあたって、「この男は、かならず偉くなる画家だから、最高の装幀料を払ってくれ」と言った。古田は太宰の顔を立てて50円を払ったのだが、これは相場の倍近い装幀料、当時最高だった青山二郎の装幀料と同額であった。
ところが次の日、太宰と阿倍の二人は再び筑摩書房に顔を出し、装幀料はみんな呑んでしまって足まで出した、もう一度払えと言う。すると古田は、太宰の言う通り、もう50円を出したのだった。これは古田の太宰に対する対応であったが、こうした古田の執筆者に対する姿勢は、その後も一貫して堅持したようだ。古田が起業し臼井が支えた筑摩書房草創期の象徴的なエピソードに思われる。
本書巻末の「発行図書総目録」をみるとこの『千代女』は17冊目の出版物であった。青山二郎のところに出入りして教えを請うた作家は数多くいたといいそれを「青山学院」などと言ったそうだが、結局古田もこの「青山学院」に混じることになった。  2016年9月14日