ブログ・エッセイ


山中樵、新潟、台湾総督府図書館、仙台北山輪王寺

先般京都大学教育学部で、山中樵『木山人山中樵の追想 : 図書館と共に三十六年』(山中正編著 山中浩刊 1979年9月)を閲覧してきた。この『木山人山中樵の追想』は、台湾総督府図書館館長を務めた山中樵の事績も、家族親族や各時代に山中と交流のあった人たちによる回想も充実していて、準備中の『戦前期外地活動図書館職員人名辞典』には多くを書き込むことができた

編著者にあがる山中正は樵の三男で台北帝国大学文政学部史学科の卒業、台湾新竹師範学校・台北師範学校教諭、応召となり戦後復員して日籍教員として台湾で留用、日本人学校和平中学に務め、引き揚げ後は仙台の常盤木学園社会科の教諭となった。樵の遺言が学校図書館を研究充実せよというものであったといい自身も学校図書館の充実化に尽力した(「宮城県学校図書館の名物男 山中正氏」『学校図書館』昭和25年10月)。その後は宮城県立図書館司書、県指導主事、県立図書館副館長、玉川中学校長などを歴任し塩釜市立図書館館長となった人物である(「子供と孫たち」『木山人山中樵の追想)。

当の山中樵は、いくつかの教職を経て宮城県立高等女学校教諭を務めていたが、宮城県立図書館新築の議がおこり教諭兼図書館司書として準備にかかり新築なって司書専任、大正2(1913)年6月には新潟に移り、新潟県立図書館設立事務調査嘱託、7月明治記念新潟県立図書館司書、大正9(1920)年5月には明治記念新潟県立図書館長に就任した。

この在職中に長岡の実業家である互尊野本恭八郎(互尊翁)が長岡市に図書館を寄付するという申し出がありそれは大正7年6月に互尊文庫が開館しているのだが、この開館準備の過程で山中の県立図書館はその準備作業に大きな援助をおこなった(山口充一「二つの思い出」『木山人山中樵の追想』、「図書館」『互尊翁 野本恭八郎』新潟日報事業社 平成18年)。大正時代、慈善事業家は多く存在したが、中でも財閥のトップだった実業家らはその名が冠せられて顕彰もされている。一方で互尊翁のような地方の篤志家らはどうなのだろうか。筆者が京都ノートルダム女子大学在職中に、いまは亡き蒔苗暢夫副学長の編で『京のキリスト教  聖トマス学院とノートルダム教育修道女会を訪ねて』を刊行したが、そこにこの聖トマス学院の建物に戦前住まわった山口玄洞のことを書いたことがあるが(「山口玄洞の軌跡をたどる」)、この尾道出身の玄洞も京都や滋賀、尾道などの寺社の修理や建造、施設の建設など、多額の資金を投じた篤志家であった。その遺徳をたたえて玄洞のお身内から二冊の本も出ているのだが、もう少し顕彰されてもよいのではないかと常々思ってきたこともあり、互尊翁から玄洞を思い起こした。

ところで山中樵だが、この『木山人山中樵の追想』は内容も充実していて、『戦前期外地活動図書館職員人名辞典』の山中樵の項の執筆にずいぶん参照させてもらった。そしてなかなか興味深いエピソードもふんだんであったころから、通常の辞典ではあまり書いたりしないような事なども書き込んでしまった。この辞典、まず個人編輯なので、そうした編者が興味をひかれた事がらの記述も許していただけようか。例えば…。

山中樵が新潟で住んでいた家は二葉町で、家の裏はすぐ砂防林、水着のまま海水浴に行けたといい、この砂浜は北原白秋の「海は荒海向こうは佐渡よ」の砂丘であったということ、また昭和2年に新潟を去って台湾に渡るおり、仙台・新潟図書館時代にともに仕事をした製本職の横田和三太老は、病に臥せっていたことから新潟を出立する山中を見送りにいけず、自宅の病床で紋服に着替え台湾の地への無事の赴任を祈った、そして横田翁は間もなく亡くなったといったことなどである。

さらに昭和2年8月30日台湾総督府図書館の第五代館長を拝命して渡台するおりのこと、31日には東京在住の市島謙吉・太田為三郎ら有志が集っての送別会が上野精養軒で開催され、9月3日大阪府立図書館を訪問して今井貫一理事長に挨拶をし、4日神戸港から出発、9月7日着任したという足取りもわかった。当時の山中の交友も知れる。

戦後を台湾で迎えた山中は、兼務していた博物館の一階を図書館とし、疎開していた資料を必要な順に牛車で運びこみ整理・配架した。台湾省図書館が設置となり山中は征用諮詢員として聘用となった。総督府図書館の接収のあとは南方資料館の接収となりこの応援も要請されている。また個人の蔵書で散逸の恐れのある蔵書を長官陳儀に働きかけ政府が購入するよう建議しそれも実行に移されている。

こうしていま山中のエピソードを書き綴っているのだが、なにか外地での山中の活動を美化しようとしているつもりはない。ただ戦前期外地での活動実績や戦後留用・聘用による事績については、実際の出来事としてやはり書き記しておくべきかとは思っている。それがこの辞典を編輯しようとする大きなモチベーションであった。

山中は昭和21年引き揚げの貨物船で帰国の途につき5月8日佐世保に上陸しそのまま仙台へ向かった。幾度かの転居ののち仙台近郊岩切の山荘に落ち着き7月には常盤木学園教育顧問となった。常盤木学園は11月3日を中心にして新築移転落成式が挙行され、山中はこの数日を休養に当てていた。ところが体調を崩して寝込んでしまい、そのまま回復することなく11月11日に亡くなってしまった。葬儀は14日に北山輪王寺で生前親交のあった日置五峯禅師を導師として営まれている。

山中家の墓所は郷里の福井市東光寺にあったが、山中は生前に墓所を仙台市北山輪王寺の山上にと定め、墓石も福井から移してここに眠ることを決めていた。山上からは眺めもよく仙山線が眼下を走り、ここならいつでも汽車に乗って全国の図書館行脚に出られるし友人の訪問もできると言っていたという。山中の法名は淳厚院興学恵明居士である。

ちなみにこの仙台市北山はわたしの息子が学生時代に下宿をしていた場所で輪王寺にも一度拝観に訪れたこともある。当時はこうした事実も知らず墓参はしていない。これら山中樵の事績を学んで、また山中が自身の墓所をこのように決定したのだという事実を知ってみると、これは是非とももう一度輪王寺を訪ね墓所に参らねばならぬと考えているところである。2016年8月19日