ブログ・エッセイ
木曽福島、南木曽、福澤桃介、桃介橋、貞奴、読書発電所、遺された絵画、処分、買い上げ、寄贈、井原市立平櫛田中美術館、平櫛田中、小林徳三郎、福山市立美術館、小野竹喬笠岡市立小野竹喬美術館、
5月の連休明け、絵描きの奥方が属している画会の創立会員U氏の展覧会が「さとテラス三岳」のギャラリーで開催されるというので出かけてきた。「さとテラス三岳」は木曽福島駅から御嶽山方面に少し入ったところにある。このわたしのお出かけは、正確に言えば、奥方がこの展覧会でのギャラリートークをするというので、そのお供、お付きとして出かけたというわけであった。
U氏は亡くなって十数年経っている。木曽福島の山あいに別荘を持っていて、別荘近くに咲いている草花や、小さな渓流などをよく描いた。わたしも画会の本展などでいく度か拝見した。清らかなせせらぎや、そこに茂る木々、そしてその周辺に咲いている野の花・山の花をいとおしむ絵画で、木曽の山あいの空気感や風のそよぎをよく感じさせてくれる絵である。今回展示されている絵の多くが水彩画であったことから、いっそうそうした感をいだかせる心の安らぐ絵画展覧会であった。U氏のこの別荘は現在もご子息らが使っておられることもあって、絵画もそのまま遺されてあるようだ。
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この展覧会に出かけた少しあとの5月中旬、同じ画会の創立会員H氏が亡くなった。H氏と親しかった奥方は弔問かたがた、同じ画会の人と大津のアトリエ訪ねた。H氏も琵琶湖畔に別荘を持っている。この別荘は、本宅のアトリエとともに絵画制作にも使われ、ご主人はここで菜園を楽しまれた。わたしもいく度か訪問させていただいてたくさんの野菜を頂戴して帰ったことがある。まだわたしが車を運転していたころのことだ。
H氏のご子息は東京暮らしであるが、母親の存命中にはこの別荘に住んだりして見守っておられたようだ。そのH氏が亡くなったことからご子息も東京にもどることとなり、これら大津の家も湖畔の別荘も処分するとのことだった。描かれた絵画も、お弟子さんや画会の人に話をされて、ゆかりの人たちに分けたりして残りは「処分」ということだった。
このおふたりは、京都美大で初めての女性入学者三人のうちの二人と聞いた。そしてこのふたりが描いた数多くの絵画の行く末は、このように大きく運命を異にすることなる。いずれも絵描きだった母親の絵画に敬意を払う「母親思い」のご子息ではあるのだが、どうしてもそれぞれの事情で、遺されたり、他の人の手に移ったり、処分されたりする運命となるわけである。いろいろと考えさせる出来事であった。
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たとえば蔵書の行く末もさまざまではある。蔵書家がその蔵書を処分するにあたって、「子孫永保」つまり愛蔵書を子や孫に大切に保存してもらいたいというもの、「身後俟代我珍蔵人」つまり自分が亡くなった後には自分に代わって愛蔵書を大切にしてくれる人を待っているというもの、そして「子孫換酒亦可」つまり、子孫がこれらの蔵書を売って酒に換えてもよいというものなどがある。いずれも、たとえば「手沢の念を絶し」とか、「酒に換えても「また」可なり」と、蔵書に対する哀惜の念がにじみ出たものではあった(小野則秋『日本の蔵書印』 臨川書店)
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こんなことを考えながら過ごしていたが、5月29日金曜日、以前から行ってみたかった井原市の市立平櫛田中美術館に出かけた。、平櫛田中は彫刻家であるが、大正の終わりごろ、子どもがあいついで結核にかかり、治療費に困って、やむなく観音像や降魔像を彫って売ったりしたことがあった。これは回想記に出ていて、昨年暮れにわたしが刊行した『評伝 山口玄洞―寄附・寄進に生きた実業家、山口玄洞の軌跡をたどる』にも書いたことがある。この時彫られた木像十一面観音像一体が京都嵯峨の永明院に安置されているようなのだ。
この永明院は天龍寺の塔頭で、昭和4年に玄洞が本堂を寄進した寺である。永明院のホームページには、この木像十一面観音像は平櫛田中の作であると明記されてある。さらに、これより少し前の昭和2年には、南禅寺の塔頭牧護庵に対しても、玄洞は本堂や庭園、観音像を寄贈している。この観音像も田中の作ではないかと思われる。
平櫛田中は養子先の家業が行き詰まり、明治19年11月、大阪瓦町の西洋小間物問屋「備貞」に丁稚奉公に出ている。同じく父親を亡くし尾道から大阪へ丁稚奉公に出ていた玄洞とは店も近かった。その後玄洞は独立して成功し店を持って財を成し、病院や学校、それに寺社に対して盛んに寄附・寄進を行なったのであった。そんな玄洞が、生い立ちを同じくした平櫛田中のその子どもたちがあいついで病気にかかり治療費にも事欠かく事態となり、やむなく観音像などを彫って売ろうとしていたことを見知ったのであろう。観音信仰にも篤かった玄洞はそれを買い上げ、寺に寄進したのではないかと推測できるからである。玄洞はこうした寄附・寄進を公にすることを好まなかったことから、事の次第は不明なのだが、おそらくこの推測は間違っていないと思う。そんなことから、今回、井原の平櫛田中美術館での展示を見たうえで学芸員にお尋ねしようと思ったのであった。
後年名を成した平櫛田中であり、また田中を顕彰する美術館にあってみれば、子どもの治療費のためとはいえ、こうした身過ぎ世過ぎのために観音像を彫って売ったことがあるということは、平櫛田中研究の「本流」の出来事ではないかもしれない。そう思いながら、井原美術館の学芸員にこうした話をさせてもらったのであった。
博物館・美術館に所蔵されている平櫛田中作品の網羅的なリストを作成するという作業などは田中研究の基礎的な仕事だと思うのだがいかがであろうか。それがいくら治療費の為の創作であったとしても、である。しかも寺院ではその観音像をお祀りし、日々お経をあげているのである。
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井原美術館でわたしは所期の目的を果たして館を後にした。そして近くにあった天然酵母のパン屋さんで一休み、お茶にした。ここはこだわりのパン屋さんのようで、パンも食べてみたが実に美味しいものだった。ただ紅茶はメニューになかった。紅茶を飲んでほっこりしたい わたしにとってはいささか残念なことであった。そういえばだいぶ以前のことだが、山形県の鶴岡に行ったときに泊まったホテルの喫茶部で、朝食後にお茶をしようと紅茶を注文したのだが、「ない」といわれたことがあった。しかもお店の人には、「東北のひとは紅茶を飲まないんだよね」とまでおっしゃる。がっくりである。どこにだって紅茶好きは居るだろうに。
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ともあれパン屋さんでのんびりして駅に戻った。当日の朝は9時ごろに自宅を出て、岡山から伯備線・井原鉄道と乗り継ぎ、井原駅前に着いたのだが、昼食は駅前のお寿司屋さんで食べた。注文したのは「お造り定食」と「天ぷらそば定食」だったが、実に美味しかった。このように、旅先で入ったお店でおいしいご飯にありつけるということは、あまりタイトな計画ではない「ぶらり旅」にとって、この上ない幸せである。
井原駅から井原鉄道で神辺まで行き、福塩線に乗り換えて福山へ向かう。福山ではダイワロイネットホテルに泊まった。このホテルは値段もリーズナブルで部屋も少し余裕のある広さがあり、設備も行き届いていて居心地が良い。ダイワハウスの経営なのだろうかな、よく考えられたホテルである。
翌朝は例によって朝早く6時前に目が覚めた。そこで、7時過ぎに起きて来るであろう奥方を部屋に残して、前日に駅の観光案内所でもらった地図を頼りに、駅近の、福山城の石垣跡を回ってみた。お城近くに鉄道を通すときの常であろうか、福山では山陽線の高架下に大きな石垣が残っていた。外堀などは駅前の繁華街にまで及んでいたのであろう。いずれにしても明治維新政府が、徳川幕府の城郭をはじめ寺院や仏像などまでも封建時代の旧弊と決め込んで壊したり売却したり払い下げたりして軽んじたものだから、城の外堀などはことごとく埋め戻されて市街地とあいなっている。もしも、こうした外堀までもふくめて遺構として残して置いたら、どの城下町も、さぞかし良い町、良い街並みとしてゆったりとした楽しいものになったであろうといつも思う。そこに路面電車などが走っていたら最高であろうなと勝手なことを想像する。
石垣の遺構から福山城の文化ゾーンを歩いてみた。ここにある福山市立美術館では福山ゆかりの小林徳三郎の展覧会が開催されていた。ぐるりとお城の周りを歩いてホテルに戻る。8時頃ビュフェスタイルの朝食に向かった。家庭菜園をやってて野菜を嫌ほど食べているくせに、ビュッフェでも野菜をてんこ盛りにして食べてしまう。
ここで朝食後の紅茶でも、と思って会場を探してみたのだが、どうもティーバッグは置いてないようだった。ホテルのロビーには、部屋で飲むためのティーバッグが置いてあったのだが、ビュッフェ会場にはない。コーヒーは置いてあるのだが紅茶はない。ないのである。どうも紅茶党は住み辛い。先ほどはダイワロイネットホテルをほめてしまったのだが、いささか減点しておくことにする。朝食後にもビュッフェで紅茶が飲めるように是非とも考慮願いたいものだ。
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朝食を済ませて9時半開場の、小林徳三郎の展覧会に行く事にした。福山城の天守閣前の広場には文化施設がいくつも建っている。こうして施設が建てられるのも、城郭を再整備したからと言えなくもない。残すか再整備するか、難しいところだが、わたしは、城のお堀を含めて遺構を残し、ゆったりとした街づくりをする、という構想に一票を投じたい。
小林徳三郎の展覧会を見て昼前に笠岡に移動、こちらも郷土ゆかりの小野竹喬美術館に向かった。美術館横の食堂で充実したランチをいただいて展覧会を拝見。
平櫛田中でも、小林徳三郎でも、小野竹喬でも、いずれもいわば郷土ゆかりの彫刻家や画家であり、建物もその人物の美術館・美術展であり、また所蔵文物も多く持っている。もちろんご遺族や関係者、地域の人たちの「寄贈」も多くある。
こうした地方の美術館・博物館の日々の活動には心から拍手を送りたい。今回訪れた美術館の展示は、三者ともよく練られた力作の企画であった。
東京でも大阪でも京都でも、有名なコレクションなどを持ってくる大型の展覧会流行りで、いきおい多数の来場者を誇りがちなのだが、これら地方の美術館・博物館では、押しかけるほどの来場者はなくても、地元ゆかりの芸術家を顕彰するという意味でも意義ある試みであると思う。心からエールを送り、今後も各地域の博物館・美術館を訪れたいと意を堅くした。
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と、このように今回のぶらり小旅行は、三つの展覧会を巡ったのだが、文頭で書いたように、絵画はいかにして残されるか、遺された絵画はどのように展観されて息づいて生まれ変わるか、ということがずっと頭の片隅にあった。また人の手に渡ったあとにも、どのようにして残るか、また末には美術館に寄贈されて展観されるか、ということも気になる所であった。三つの展覧会では、作品鑑賞はもとより第一であるが、あわせてキャプションにある所蔵者・寄贈者という表示に目がいってしまった。
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わたしは画家ではないが、自分の営為をいかにして残すか、子どもがそれらをどうやって処分すれば、自分も子どもも負担が少ないか、ということを考える。幸か不幸か、蔵書と言っても大したものはなく、コピーした資料を含めて大半は自分の手ですでに処分した。残るは自分が著述したものだけだ。これだけは、と思って、二階の部屋に置いてある。あとは資源ごみと紙ゴミばかりだ。
そしてもうひとつの懸案は、絵を描いている奥方のものである。これはどうするか今のところわたしは知らない。仙台にいる息子がたまに帰ってきたときに、かならず真っ先に二階にあがり、わたしの部屋の「紙ごみ」書架と、奥方の画室に立てかけてある一群の絵を確認する。そして何となく難しそうな顔をして降りてくるのである。
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切実でなかなか難しい問題、そして割り切りが困難な問題ではある。木曽福島の個展以降、そんなことをあれこれと考えながら、笠岡からは、普通列車と新快速を乗り継いで、在来線でのんびりと帰ってきた。それでも家に着いたのは20時前であった。
2026年5月31日