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建国大学戦闘隊第二中隊長に任命された寺田剛 のこと

建国大学戦闘隊第二中隊長に任命された寺田剛 のこと

寺田剛の略歴
寺田剛は大正元(1912)年神奈川県の生まれ。昭和8(1933)年東京帝国大学の東洋史学科に入学し、国史学の平泉澄、東洋史学加藤繁に師事。昭和11年に卒業して文学部神道研究室の副手、続いて助手となる。昭和14(1939)年1月渡満し建国大学講師に就任、のち助教授から教授となった。ちなみに平泉澄は作田荘一・筧克彦・西晋一郎とならんで建国大学の創立委員でもあった。新京で終戦を迎え、その年の12月ソ連兵に連行されてシベリアの収容所に送られる。その後さらに中国の撫順収容所などに収監された。昭和31年7月になりようやく引き揚げて、孔版タイプライター株式会社に入社し総務部長。昭和32年3月に退社して東京孔版印刷社を創業した。東京都教育父母会議専務理事、日本学園高校講師。昭和39年4月には亜細亜大学教授となった。昭和58年3月に定年退職、続けて同校の講師を勤めた。著作に『大橋訥庵先生傳』『大橋訥庵先生全集』『山陵の復古と蒲生秀實』『宋代教育史概説』『在臺灣孔子廟碑文集成』など(『台湾の孔子廟の研究』寺田剛 1985年4月、また終戦時および抑留時期については『虜囚第二十一號(中共抑留記)』 国際問題研究所 昭和35年による)。
ここではソ連軍の南下後に建国大学で結成された戦闘隊の中隊長に任命された寺田剛の、建国大学時代の活動および終戦時からシベリア抑留、撫順刑務所時代の寺田について書いていく。

建国大学での寺田剛
建国大学における寺田の活動については主として『建国大学年表』からひろって述べる。回想記『虜囚第二十一號(中共抑留記)』にも、抑留時の尋問などに関連して建国大学時代の回想が載るが、それは抑留時期において触れていくことにする。
寺田が建国大学に赴任したのは康徳6(昭和14、1939)年1月のことである。大学で師事した平泉が建国大学の創立委員であったことから、その推薦によるものであっただろう。この年の6月30日に発表された「研究院要報」によれば、寺田は「建国原理研究班」に所属している。この研究班には作田荘一研究院長や森信三(企画室常務)らもいた。また「歴史研究班」にも属し、「東洋宗教思想史ノ研究」「漢民族祠廟ノ研究」を課題に研究するとした。なお「思想国防研究班」には作田班長・森信三らに混じって『月刊撫順』『月刊満洲』を創設した城島舟禮の娘婿の斎藤英一の名前がみえる。
康徳7(1940、昭和15)年5月には新年度の各研究班の構成が決まり、寺田は作田院長が班長を務める「基礎研究部」の「研究原理班B」に所属、また森信三が班長の「日本精神班B」に配属となった。さらに君山稲葉岩吉班長の「歴史班A」「満蒙文化班」、松井了穏班長の「宗教班B」にも所属している。この5月に稲葉が死去したことから「歴史班」はその遺志を継いでいっそう研究に励むと決意を強くし、寺田(助教授)は「鄂博祭を中心とする蒙古人の宗教や思想」の研究に勤しんだ。6月13日にはこの研究のため興安北省新巴爾虎右翼旗に20日まで出張した。12月16日から24日まで黒河付近ならびに嫩江沿岸住民の宗教調査のため黒河・愛琿・訥河・墨爾根方面に出張している。
康徳8(昭和16)年4月1日には常置研究班所属班員一覧が発表となり寺田は「基礎研究部」の「東洋史分班」に配属、ここには瀧川政次郎・高橋匡四郎らがいた。また「文教研究部」の支那文化分班に所属、ここでは杉村勇造・小糸夏次郎らと同班であった。7月7日後期第一学年は夏季訓練として調査旅行(地方実態調査)に出かけたが、寺田は興安北省の額爾克努に学生22名と出ている。
康徳9(1942、昭和17)年1月15日塾勤務教員の発表があり、寺田は前期2学年を担当した。1月29日には「協和会の活動を認識せしめ以て建国精神の体得者たるの信念と実践力を涵養し殉国挺身最高熱烈なる指導者を養成する」との目的をもって実施された「建国大学学生現地訓練」の指導官として第5班の担当となり、永吉・蚊河・敦化・延吉・琿春・九台地方に向かった。3月25日の福島政雄を班長とする国民教育研究班ではいっそう研究を進めるために学外研究者との共同研究を行なうこととした。建国大学からは森信三・小糸夏次郎・寺田剛・西元宗助ら福島政雄の系譜につらなるメンバーが参加している。福島政雄は、森信三が建大に呼び寄せたとするこれら教員のいわば長老格であり、森のこうしたつながりは建大ではおのずと主要な一派をなしたように見える。そしてこの国民教育研究班は学外にも拡張し、民生部・協和会・師道大学などからも研究メンバーが選ばれている。おおがかりな研究班となった。この研究班での寺田の研究課題は「宋時代の教育制度」で、その成果は6月に『研究院月報 19号』に「白鹿洞書院の復興」として発表された。7月25日から「支那教育史」の研究のため1週間の予定で大連に出張している。
康徳10(1943、昭和18)年9月13日から11日間、建国当時の蒙古人の活動などの調査のため海拉爾に出張した。12月17日には後期第3学年の塾頭を命じられている。このように寺田は塾関係の塾頭の仕事などもよく務めたようである。
康徳11(1944、昭和19)年6月14日には前期入学試験委員に任じられる。6月23日学生勤労奉仕隊建国大学隊幹部として第二中隊指導官に選ばれている。

終戦時の寺田剛
こうして康徳12(昭和20)年8月を迎える。8月9日ソ連軍が参戦、建国大学の学生塾にいた寺田は学生に対しそのまま待機するよう指示して警戒に当たった。8月11日に建国大学では秘密緊急教職員会議が開催された。すでに述べてきたように、尾高亀蔵副総長は戦況を説明し、関東軍司令部の通化への移転や家族の通化また朝鮮へ退避などを報告したうえで、出席した教員に対しソ連軍の南下に対する対応や各自の意見を書いて提出するようにと促した。尾高はその意向調書を別室で読んだうえで、建国大学戦闘隊の結成を決定し、日系以外の学生は勤労奉仕に向かうといった決定事項を教職員に命令した。ただこの戦闘隊に参加するか否かは各自の自由とした。
ここで決定された建国大学戦闘隊は、統率が副総長尾高亀蔵、大隊長兼第一中隊長に安倍三郎教授(心理学)、第二中隊長は西元宗助助教授(仏教学者、担当は教育学)、そして第三中隊長がここで述べようとする寺田剛助教授(東洋史)であった。
建国大学で防衛隊である戦闘隊を結成したものの8月15日に終戦を迎える。これで満洲国は崩壊し、拠って立つ建国大学も存立基盤を失った。戦闘隊は解散、統率であった尾高副総長は吉林方面へとゲリラ戦に向かうと宣言して不在となり千葉胤成が建国大学の副総長代理を務めることとなった。建国大学は8月20日に武装解除、23日には千葉副総長代理のもとに「建国大学卒業証書・在学証明書授与式」が開催され、ここで閉学宣言も発表された。これで建国大学は名実ともに閉学となる。この授与式に参加したのは、教員数十名と日系学生約百名とまことにさびしいものであった。
こうした過程について、寺田は「今でもありありと当時の状況をおもい出すことができる」としておおむね次にように書いている(「付記:ソ連抑留生活」『虜囚第二十一號(中共抑留記』)。
8月9日のソ連軍南下の前に、後期の満系の学生はすでに満洲航空会社の勤労奉仕に出ていた。このソ連の南下により前期の学生も勤労奉仕に出ることとなった。一方、日系学生は徴兵検査前であっても年齢に達した学生は全員召集となっていた。そんなことから建大に残った学生は、日系の年若い前期1、2年生だけとなったのであった。寺田は大学当局に対し、招集となった日系学生が戦地に向かうための新しい被服を支給してやってくれと要求したが事務官はそれを拒否した。寺田は学生たちに、「心配するな、もし出さなかったら倉庫を壊しても、新しい被服を出す」と明言したという。
塾務科長は、「隣組の疎開のことで」と寺田に告げてよろしくと言い残したまま出勤しなかった。「副総長は、特別義勇隊司令になって、大学のことは頼むといって出てこない」。寺田には臨時召集はこなかったが、臨時招集に取られた教官も少なくなかった。そしてまた「平素強いことを言っていた教官も、疎開の何のといって、一人も出勤しないのだから全くあきれた話である」と寺田は憤懣やるかたない。寺田はといえば家にも帰らず塾舎に寝起きしていた。このように大学に残留した教員も少なくなり、軍の招集から免れた寺田の手元には、塾頭をしていたからか、倉庫の鍵以外の、被服・食料・医務室・兵器庫の鍵が集まってきた。
寺田は以上のように回想している。寺田のいうこの尾高副総長の「特別義勇隊司令」というのは、建国大学戦闘隊の統率つまり隊長のことであろうか。そうであれば尾高は幾人かの回想にあるように、「戦闘隊」隊長として胸に「功二級金鵄勲章」「勲一位景雲章」と墨書したものを縫い付けて馬で駆け回っていた。
ところで、先の緊急職員会議で決定された建国大学戦闘隊については、参加するかしないかは各自の判断と留保をつけていた。そんなことから尾高副総長に反感をもっていた教員や、大学の「校務」よりも自身の「研究」を優先的に考えて建国大学に赴任した教員もいたことであろうから、かれらは大学に残ることなく疎開を理由に大学をあとにしたことであろう。ただ満洲国や建国大学の理念を深く信じて赴任した教員も確実に存在していたはずであり、かれらは濃淡があるにせよ、建国大学の理念に殉じようと新京に残ったのである。先の安倍三郎や西元宗助の項目で書いたように、教職員会議の意向聴取で、建大を守るべしとの趣旨を書いた教員も存在しており、またそうした教員のうちから「大隊長・中隊長」が任命されたのである。そしてこの寺田も、その回想文を読む限りでは建大に残るべきとの意思が強く、おそらくそのように意向聴取に書いた考えられ、中隊長に任命されたのであろう。

ソ連兵に連行される
先の寺田の回想文からその後の寺田について書いていく。
終戦となり臨時招集された学生たちは全員無事に帰ってきた。尾高副総長は副総長の職を千葉胤成教授に委任して、自らはゲリラ戦を展開するといい大学を去って吉林方面に赴いた。寺田の回想によれば尾高は、「わしはソ軍に捕ったら、殺されるから逃がしてくれ」と言ったという。そんなことから寺田は自分の指導学生から3名を選んで「護衛」につけたという。尾高に同行した学生三名というのは寺田の指導学生であったのである。
尾高はゲリラ戦が不首尾に終わって新京に戻り潜伏した。とはいえ寺田とは絶えず連絡をとっていたというから、尾高は寺田を信頼していたのであろう。元陸軍中将の尾高が建国副総長として大学に残っていたとしたらほぼ確実にとらえられたであろうから、この吉林方面へのゲリラ戦展開も、もしかしたらそれを避けるための方策であったのかもしれない。
疎開して空き家になった建国大学の宿舎は「満人」に略奪された。寺田は残された品物を整理して難民たちに分け与えたのだったが、平素寺田を快く思っていなかった学生らは、あたかも寺田が略奪したかのように言いふらした。寺田のことを「快く思っていなかった学生」もいたということであろうか。先に尾高がゲリラ戦を展開するということで頼まれて3人の学生をつけた、ということから見ると、寺田は、一部の学生に慕われ一部の学生からは「快く」思われていなかったということか。言動や行動がはっきりしていたのかもしれない。
ソ連兵の「人狩り」が横行する。「在郷軍人・鉄道警護隊・司法官・警察官・憲兵・協和会職員・満洲国軍官・官吏」らが狙われたという。建国大学関係者はここにあがってないが、寺田は、「一度はソ連に捕われて、協和会との関係を尋ねられ、一度は公安局に呼び出されて、兵器の行方を尋ねられた」とあるので、建国大学の教職員も要注意人物として目をつけられていたことは確かであろう。
そしてついに12月4日、寺田の元にソ連軍司令部から迎えの馬車がやって来た。寺田は連行されて牡丹公園の旧タイ公館に収容されることとなった。森信三や西元宗助・小糸夏次郎ら建国大学の教員らもソ連兵に連行されているから、おそらく建国大学グループがこの時期に摘発を受けたのではないかと思われる。ただ寺田は12月4日と書いているが西元らの回想では12月14日とある。その後の経緯をみると14日と思われる。
このタイ公館で寺田は、兵器の隠し場所や副総長の所在場所また建大で反満抗日学生の検挙がおこなわれた際に憲兵隊に協力したかどうかなどを尋問されている。寺田がこのように尋問されていることを考えると、副総長の尾高は、連行すべき第一の候補であったことは間違いないところであろう。
寺田は、憲兵隊に協力したことなどないと明言したが、調書には、学生の検挙にさいして憲兵隊に協力したとの偽りの調書が作成されそれがあとあとついてまわった。このときの通訳は、西元宗助らの回想にもあるように、元建国大学の学生で1年ほど前に大学から姿を消した「白系学生」スタブスキーであった。この寺田の回想では、「素行不良学業劣等」で前期を修了したものの後期に進学できなかった学生であったと言い、「それを私のせいにして、逆うらみをして殴りに来たこともあった」という。このことは後に詳述する。

ソビエト シベリア抑留
昭和20年12月17日朝、牡丹公園の旧タイ公館から「新京駅」に移動して貨車に積み込まれた。寺田の回想では「新京駅」とあるが寛城子駅であろうか。貨車は二段の板張りで20人ほどが押し込められた。ここで建国大学の同僚だった森信三は49歳、「高齢」ということでシベリア送りから免れている。西元宗助(36歳)はシベリアに送られ、小糸夏次郎(37歳)はいったん駅頭で解放されたもののソ連兵に欺かれて再びシベリアに送られた。寺田はと言えば33歳であった。
シベリアに入りチタで下車、鉄道クラブに収容されてここで正月を迎える。西元の回想文にもあるが、寺田もこのチタで入浴中に預けた荷物がなくなるという災難に遭っている。ソ連兵の「恒例」「悪弊」ともいえるしわざであった。4日にチタからふたたび列車に乗せられる。ここでも車両長は配給の砂糖をごまかし、黒パンも自分たちで食べるだけ食べて、その残りを皆に分け与えた。規律も何もあったものではない。送られたのはアルタ・マタで19日に到着した。アルタ・マタは現在のカザフスタン共和国、改称されてアルマティとなっている。
第40地区の第三ラーゲリ、ここで2年間過ごすことになる。日々作業の繰り返しであった。その後は99地区のカラガンダ収容所に移り半年を過ごす。現在のカザフスタン共和国の都市である。どこでも「アクチーブ」というソ連側についたいわゆる活動家は存在したのだが、寺田は「同胞を苦しめるような、非日本人のまねはできなかった」と書いている。この寺田の姿勢は、収容所時代に一貫したものであった。ただこの地区では、いわゆる「民主運動」はさして盛んではなく「反軍闘争」もあまりなくて「比較的のどかな地区」であった。ここで寺田は壁塗りなど左官としての技術を習得する。これは「民主運動の鋭鋒を避けるによい武器」となった。「手に職を持つ」ことで収容所の思想的な運動から相対的に距離を置くことがきたということなのであろう。先行きを見通した賢明な方策であった。

中国撫順収容所
昭和25年7月上旬、ハバロフスク地区俘虜管理局長の少将から「帰還命令」が告げられた。5年になんなんとする捕虜生活から解放されるとみな大喜びをしたのだが、どうも様子がおかしい。
移送されることになったが、7月15日、輸送を前にして寺田は 突然のめまいで倒れてしまう。ただ不幸中の幸いというべきは、通常の囚人列車は、上中下の三段で扉は締め切りで息苦しいものだったが、病人患者用の貨車は軍医らも乗車し、扉も開けたままになっていて少しはましなことだった。しかも他の囚人列車では、7月15日が日本共産党の創立記念日だということで、アクチーブが先頭に立って赤旗を振って記念の行事を行なったのだという。
「帰還命令」どころではない。列車はソ連領から満洲方向に進んでいく。果たして着いたのは綏芬河(すいふんが)であった。ここで中国の「客車」に乗り換える。輸送はこれまでずっと貨車であったが今回は客車での輸送であった。しかも付き添いの護士(看護婦)が乗り込んで、捕虜たちに「病人はいないか」と尋ねてくれる。「ここにいるのはみな病人ばかりです」と寺田が中国語で伝えると、ひとりひとりの病状を聞いてくれた。中国の看護婦たちはよく面倒を見てくれた。
ソ連抑留時代とちがって朝食には白パンがでた。それも食べたいだけ食べられた。綏芬河を出発して、哈爾浜・新京(長春)・奉天(瀋陽)を経て撫順に向かう。新京を通り過ぎるあたりでは、「青春の情熱を傾け尽くして送った七年の建大生活に、限りない追憶と愛着」が掻き立てられた。シベリア抑留を経て、なんとかここまで生き延びて、今回は捕虜として「あの新京」を通り過ぎるという事態に、感慨もひとしおであった。そして撫順に到着した。
寺田ら捕虜は撫順駅からさらにトラックで運ばれていく。行先は撫順戦犯管理所であった。これは満洲国が設置した撫順監獄の跡地を利用した収容所で、ここに満洲国側で活動した日本人が戦犯として収容されることとなったのである。寺田の部屋は1人あて1畳ほどで、片側9人もう片側には8人が収容され、8人側には「電話室」と呼んでいたトイレが設けられていた。
ソ連の収容時にはちり紙一枚も支給されなかったが、ここではちり紙をはじめ、歯ブラシ・歯磨き粉・手拭いが支給された。寺田は「囚人番号21号」が割り当てられた。21という数字については、たまたまだがこの日が昭和25年7月21日で、取り調べを終えたのが昭和29年6月21日であった。寺田は帰国後に孔版タイプライター株式会社に入社するが、この会社の写真記章がなんと21号であった。社長に訳を話して取り換えてもらったのだという。そしてこれが回想記の題名「虜囚第21号」となった。
その後いく度か部屋替えを命じられたが、その都度同部屋の囚人の仲間たちからは、「左官屋さんが来た」と歓迎された。ソ連の抑留生活で身につけた「手に職」が身を助けたのかもしれない。
収容所には、警務科長・警務局長・大佐・少佐・検事・刑務所長・協和会職員らがおり、将官級・佐官級・尉官下士官級であった。張景恵元国務総理ら「満人」も収容されていた。6所は佐官級が集められていたという。軍人との単純な比較はできないが、寺田は大学では薦任官三等であり、建国大学教員というのは上級の地位とみなされたのであろう。しかも寺田の場合は、建国大学での反満抗日学生の検挙の際、憲兵隊に協力したとでっち上げの調書を取られていたから、こうして撫順収容所にまで送られてきたわけである。
食事に関して言えば、将官用が「小釜」といわれる個人ごとに用意された食事、佐官食は中釜という少人数ごとに用意された食事、そして一般の兵隊は大釜といわれて大人数の食事が一度に準備されていたという。これは中国人民解放軍以来のしきたりであったと寺田は書いている。
哈爾浜収容所に移される
昭和25年10月21日、突然哈爾浜の収容所に移送されることとなった。6月に始まった朝鮮戦争の影響なのであろう。哈爾浜に到着するとバスに乗せられ、キタイスカヤを越えて松花江近くの哈爾浜監獄に入った。1部屋6人あてで、田子刑務所長・上古少佐・船木大佐・田井警務科長・鈴木警尉と寺田とで過ごしたという。部屋には仕切りのない「便壺」があり当初は閉口したものだが、慣れてくるとこの便壺に水をためて洗濯し体を洗うようになる。「非人道的な設備」であったが、これは隣室の坂田特務科長が哈爾浜に在職中に造ったものだといい、「自業自得」ということとなった。
収容所では学習を強要しない。運動もない。ただ学習用の全紙を一枚と鉛筆が支給された。寺田は少し頭を使おうと考え、自分の記憶をたよりに、日本語の品詞を書き出し、蒙古語・朝鮮語・ロシア語・ドイツ語・英語と知っている言葉を片っ端から書き出していった。さらに東北音・越南音・台湾音・朝鮮音なども書き加えた。後にこれを郭沫若中国科学院長に読んでもらおうと考えていたが、取り調べの前にすべて取り上げられ焼き捨てられてしまった。
また『東北日報』紙が自由に読めることから、中国語の百科事典をつくろうかとも考え、言葉を選んで工業・農業・交通などに分類して書き始めたりした。専門というわけでもないのだが、研究者の習いというか、学問を積んでいく過程で学んだ「技法」を応用して用語辞典などに組み上げたわけである。苦境の中の営為ではあったが、若いころに身につけた学習法や技法このように援用されているのを見ると、やはり寺田は「研究者」なのであった。
哈爾浜で年を越し、昭和26年9月、72号室に移動して勞働班となった。仕事といっても、食事の班への分配、各自の食器への分配、そして廊下の清掃が主なものであった。他の収容者は運動以外には出られないのでこんな「労働」でもうらやましがられた。
監房では多発性神経炎が蔓延した。拘禁病とか監獄病とか言われるもので、歩行が困難になり視力が減退するなどの症状がでた。収容所当局はビタミン剤の注射を打ったりしたが運動不足が主な原因であることがわかり、運動時間も2時間ほどに延ばされた。
昭和27年11月ごろから、「福祉のための作業」として、蓋付きの鉛筆入れを作る作業がはじまった。また昭和28年3月5日にはソ連のスターリンが死んだが、その時の新聞は見せられなかった。「囚人の教育上不適当な記事がある」という理由である。ただ寺田は医務室に行って診察を受けた時に、たまたま医官の机に置いてある新聞を見て知った。新聞はすぐに片づけられたが、この情報はたちどころに広がった。

「担白」(自己批判書)の作成
昭和28(1953)年になり、同室の「佐官」らのメンバーが階下に部屋替えとなった。「担白」が始まったのである。「担白」というのは、過去の行為を自供し反省して悔い改めるいわば自己批判のことである。翌日には寺田も呼び出されて階下に降りた。嫌だなと思ったが、どうも「学習」に熱心な者を選んだ模様である。係官から、どんな学習がしたいかと問われた時、寺田は「中共の事情をさらに学習し、事実にもとづいて、理論の研究を進めたい」と答えた。
尋問が終わって「担白」の作成である。書き方を指示され、二週間の期限を設けられて「担白」の作業に入った。寺田はこのときのことを以下のように回想している。建国大学での寺田の様子や業務よく理解できるので、長くなるがそのまま引用してみる。

私はどうしようかと思った。建大に勤めて講義をし、研究し、塾頭をし、医務室勤務をやって学生の病気をなおした。戦争にも行ったこともなし、人を殺したことも、傷つけたこともなし、女房以外の女に接したこともなし、一体、何の戦争犯罪人として罪を問われるところがあろうか。強いて言えば、勤労奉仕で対ソ戦の援助をしたとか、学生に大東亜共栄圏の思想を講義したとか、学生の思想取り締まりのために書籍を検査して、一、二没収したというのが、敵の立場で考えてみると、当局の要求する担白事項に該当するらしい。結局私が歩んで来た道をそのまま書き出すことにしようと決心した。これを橋本や八木に謀(ママ)ると、彼らも私に「罪はないよ」と前提して、私の案に賛成してくれた。

ここに寺田が書いている「学生の思想取り締りのために書籍を検査して、一、二、没収した」という役目は、尾高副総長を補佐する「学内巡視補佐官」のことである。それは、1 図書点検、2 校舎および塾舎外の整備整頓、3 ガラス窓その他の保管整備状況、の視察・点検であった。これは建大では通常の業務として実施され、寺田ならずとも森信三ら多くの教員が順番に任じられ担当したものである。
「学生に大東亜共栄圏の思想を講義した」ということも、建大においては、各分野の講義であれ研究活動にあっても、多かれ少なかれ「大東亜共栄圏」や「五族協和」の思想に裏打ちされていたわけで、これはどの教員にも共通することであった。
学生の「勤労奉仕で対ソ戦の援助」のための動員も、建国大学の方針として実施されたものである。建国大学時代での寺田は、森信三や安倍三郎ほどにも要職に就任したわけではなかった。この寺田の「担白」の内容であれば問題はないように思われる。
寺田は期日通りにこの「担白」を提出した。そして結果、寺田を含め十四人全員が無事通過することができた。そしてこの「担白」教育を受けた者は特別に遇するというわけで、昼間は棟内の各部屋へ自由に行き来することもできるようになった。
収容所は閉鎖的で小さな閉じられた世界であった。そんな小さな世界でも、部屋代表の選出とか、鉛筆ケースや封筒張りの作業の出来きばえなどなど、些細なことでいさかいのある空間であった。寺田はそれらをやり過ごした。
また帝国主義論などをテーマにした全体討論会も開かれた。中国側のねらいは、マルクス・レーニン主義の正しさ、日本革命に向けての認識の深化などであったが、中国側の言い分としては、「諸君が学習を希望しているから、援助を与えているだけで、指導も強制もしていない」というものであった。あくまでも思想学習を強制するものではないという認識である。寺田はこれら作業や学習のことを、自身の記憶をもとに同じ捕虜の名前を出して事細かにこの回想文を書いている。
収容所の生活では、夜に「文化・娯楽の時間」として、歌や踊り・演劇の各班に分かれて活動した。寺田は音楽班に所属した。文化祭では自作の「歌劇」をやった。もちろん出し物の脚本は事前に検閲があった。とはいえこうした「文化的」な日々もあったわけで、帰国の日も遠くはないと感じられた。
昭和28(1953)年10月20日ごろ、全員が講堂に集められて哈爾浜の興安局長の講話があった。そしてその最後に、三年間すごしたこの哈爾浜監獄から南に向かうことになると宣言された。バスで松花江畔にでて、引き込み線に停車している客車に乗り、到着したのは撫順であった。朝鮮戦争も落ち着いたこともありふたたび撫順に戻されたというわけである。

撫順収容所にもどる
ふたたび撫順収容所に戻った寺田らは、「担白」の佐官組の部屋と、寺田もふくめた佐官尉官混合の部屋とに分けられた。食事に関しては、「担白」佐官組と寺田ら佐官尉官混合とは、先に述べたように「小釜」「中釜」の区別があり、そんなことから、寺田の部屋の佐官尉官混合組では、佐官食と尉官食の二種類の食事が出る。そこで寺田らは二種類を適宜混合して食べたのだが、これは管理所の方針に反するということで尉官組が辞退し、それぞれが定められた別々の食事を食べることとした。気まずい光景であったと寺田は回想するが、これが中国のやりかたであった。
一日はその半分が学習、半分が運動であった。学習では「帝国主義論」を手に入れてそれを写して勉学に励んだ。夜は「交換文化祭」とかで、寺田の佐官尉官混合の組は先に創作した「平和の勝利」を再演した。部屋にはバイオリンも置かれてあり練習することもできた。兵隊組の方は芸達者も多くて多彩な出し物であったという。部屋替えなどもあり寺田は二号室の所属となりここで「文化係」に推された。さもありなんであろう。夕食後に歌の練習などをする。管理所に頼んで歌曲集を借り出してこれを写して練習に励んだ。
昭和29年、中国での四年目の正月を迎える。あるとき寺田は、ソ連の西ドイツ戦犯が刑期未了のままドイツ政府に引き渡しとなった記事を読んだ。何人かにこの話を伝えて希望を持とうと励まし合ったりもした。こうしたことが影響したのか、収容所内で「帰国請願運動」がおこる。「罪なき者をかくも長きにわたり拘留して家族との通信も許さないのは非人道的である」というわけだ。食事がまずいとか文句を言う収容者もいた。
ただ、こうした動きは当局を無用に刺激するし無駄なことだといって賛同しない人たちもいた。結果的には、請願書が提出された後に主謀者たちが割り出され、かれらは営倉に入れられ、署名しなかった人たちは優遇されることとなった。中国で拘留中に集団で当局に反抗したのはこの一件のみであったと寺田は書いている。
2月になると、建物の改築改造が始まる。医務室の病室も個室・独房に改造されて何人かがここに収容された。「裁判」が始まるということのようだった。まずは佐官組が移動して部屋割りも再編された。
3月中頃青木少佐に呼び出しがかかった。目隠しされた車に乗せられ山の麓の建物に連れて行かれて「罪業」を調べられた。青木は新京憲兵隊の警備科長で、3度ばかり呼び出されて帰ってきたが、「困った、終戦直後の事件を隠している」と尋問されたのだという。南嶺で憲兵が満人を射殺した事件に関して、知らないはずはないと言われたのだ。
中国の取り調べでは、事前に証言などを集めたうえで「容疑者」に「担白」させるのが常であった。そのため部屋に収監されるときには学習帳や自作のノートなどは取り上げられた。青木はその後に喀血して倒れてしまった。その結果というわけでもないだろうが、検察官がやって来て、「担白」の態度もよく取り調べも終わったから静養するようにと言い渡された。
4月21日になり21号つまり寺田が呼び出される。検察員から、寺田は大学教員という有識者であり、殺人とか放火とかの罪ではない、正直に答えたら帰国もできるだろうと言われる。数日後に再び呼び出され、寺田は生まれから家庭のこと、経歴、建大での職務や講義のことを述べた。そして作田副総長の時代の康徳9(1942、昭和17)年3月ごろ、建国大学で学生の反日運動が発覚して学生が憲兵隊に捕らえられ、結果的に作田副院長が引責辞任となった事件のことを検察員に話した。すると検察員は「待ってました」とばかりにこの事件の詳細を根掘り葉掘り尋問してきた。かれらの言い分は、こうした抗日運動が発覚したということは、内部にスパイがおり、そこにはこのスパイを指導した教員がかならずいるはずだ、というものであった。寺田は前年の康徳8(昭和16)年には講義も塾頭業務もなく、大学にはほとんど出なかったとその実情を話した。すると検察員は、授業も塾頭の仕事もしないということは、この時代に「特務」の仕事に専念していたということではないかと畳みかけてくる。寺田は、建大には研究院に所属する研究職の教授がいて研究に専念できる体制になっているのだと繰り返し説いた。そして建国大学には軍務科長や関東軍の配属将校がいるはずで、憲兵隊に近いのはむしろかれらの方である、教員側にはそのような憲兵隊との接触はないと突っぱねた。
すると検察員が取り出してきたのが、新京でソ連軍に尋問された時に捏造された例の「偽りの調書」であった。検察員は「誇らしげに」それを中国語に訳して読み上げる。そこには、「私(寺田)は建国大学の学生の検挙に際し、日本憲兵隊に協力しました」とあり、そこに寺田剛の署名もあるのであった。その偽りの内容を寺田はここで初めて知ることとなった。そしてそれを知って驚くと同時に、自分が帰国できないという本当の理由がこれで明確に理解できたと思った。

寺田の回想するスタヴィスキー
このニセ調書を読み聞かされて、寺田は元建大学生のスタヴィスキーのことを思い出した。そして寺田の回想文のなかのこの時期の記述箇所に詳しく書いている。回想文は戦後からのものではあるが、建大時代の寺田剛とスタヴィスキーとのいきさつが詳しく書かれてあり、また他の建大教員である森信三や小糸夏次郎・西元宗助らの検挙とも深く関わっているので少し詳しく書いておきたい。スタヴィスキーについての詳細な記述は管見の限りではこの寺田の回想でしか知ることはできない。
スタヴィスキーは康徳9(昭和17)年に補欠で入学した学生であった。寺田の塾生として配属された。塾生にはもうひとり白系ロシアの学生がいた。スタヴィスキーは生活態度が悪くルーズで整理整頓もひどい状態であったという。翌年スタヴィスキーは寺田の塾生から江原塾頭のもとにに移った。康徳11(昭和19)年夏になり寺田は勤労奉仕で吉林省の金珠に滞在した。経歴の項で書いたように、6月23日から学生勤労奉仕隊建国大学隊幹部として第二中隊指導官に選ばれて派遣された時のことである。
ここで寺田は、学生の作業指導教官および医官代理として衛生関係の業務についていた。ある日宿舎で巡察をしていたところ、スタヴィスキーが宿舎で休んでいて、前期生には禁止されていた煙草を吸っていた。寺田は注意をしたがスタヴィスキーは横柄な態度をあらためず、寺田は横面にビンタを張った。
その年の学年考査の後の進級審査でスタヴィスキーは幾人かの教員から落第点をつけられた。その結果、審査会では前期修了・後期不進学と決定された。それでスタヴィスキーは満洲里に帰郷したのだったが、康徳13(昭和20)年8月、ソ連軍南下および終戦時にソ連兵の通訳として満洲に進駐して来たのであった。
スタヴィスキーはまず副総長の行方を確認するために尾高副総長宅にやってきた。尾高は陸軍中将の副総長であり、連行の第一候補であったわけである。だが尾高は「ゲリラ戦」のためすでに吉林方面に出発している。スタヴィスキーはその足で寺田宅に押しかけて来た。土足で上がり込んで家族を外に出し寺田を座らせて、「キサマのために殴られ、退学させられた、その恨みをはらしてやる」と教官だった寺田を殴ったのである。そして尾高副総長の行方を執拗に詰問した。寺田が知らないと答えると家じゅうをひっかきまわして出て行った。
その後10月には小原医官と須永秀彌教授(生産論)・加川満喜助手(武道訓練)と寺田が連行されて拘留された。この時にもスタヴィスキーがいた。だがこの日は無事に帰された。そんなこともあって、寺田は12月になったら新京から脱出しようと考えていたのだが、その矢先に拘束されてタイ公館に連れていかれたというわけである。
タイ公館でもスタヴィスキーに尋問される。「拳銃はどこにやったか?」「副総長をどこに隠した?」としつこく聞いてきた。建大にあった拳銃などの武器はすでに武装解除をして返納している、副総長の行方に対して寺田は「知らない」と答えた。さらにスタヴィスキーは、「キサマが学生を検挙したのだろう?検挙したと言え」と建大の抗日学生検挙の件を追求してくる。「憲兵隊に協力した事実はない」と寺田が主張したにもかかわらず、調書はスタヴィスキーに欺かれて、「検挙に協力した」と書かれてしまったのであった。これがために寺田はシベリア抑留となり、シベリアから引き揚げることもできずさらに撫順や哈爾浜の収容所に閉じ込められたのであった。

寺田剛の回想する尾高亀蔵副総長
少しさかのぼるが、ソ連軍が南下し終戦の詔が発出されて終戦を迎えた後の8月18日、尾高副総長は会議を招集し、建国大学戦闘隊を解散、新京に残った建大学生を帰還まで預かることなどを決定した。そして千葉胤成教授を副総長代理に任命して業務を任せ、自らは吉林へのゲリラ戦に向かうと宣言した。この会議は副総長訣別式となったのであった。ところが寺田は、この尾高副総長の吉林ゲリラ戦についてこのように回想文に書いている。
尾高副総長は、八月十九日満洲国政府壊滅の日に、建大の解散を宣言し、残余業務を千葉教授に託して、私が面倒をみていた学生三名を連れて、吉林へ逃げるといって新京を離れた。その前日私を呼んで、「ソ連が入城すると殺されるから逃がしてくれ」「ついては先生(寺田)の所の学生三人ばかり出してもらえないか」という切なる頼みであった。張鼓峰事件の司令官、元軍事参議官で三軍を叱咤した将軍が、最後の窮地に陥って、私だけが頼りだといって来られたときに、私は敗戦の悲しみをひしひしと身に感じ、直ちに、私が特に薫陶していた学生の中から人選して三名をつけ、米を準備して送り出した。
尾高亀蔵の項目でも詳しく書いたのだが、この件については、尾高の「吉林作戦」に同道した中司和宗も回想している(『建国大学年表』)。中司が「尾高公館」に行くと、関東軍軍司令部から下士官と兵士6名が派遣されていて車が用意されてあった。さらに建国大学の学生3名(松平康昭・服部峰雪・西口為之)も同道するという。中司も同行することとなり、第一車に尾高須恵子夫人と3人の娘(春野・璋子・弥生)、助手席に尾高、運転は中司で、第二車には下士官・兵士が乗車したというものだ。
中司の回想を寺田の回想のそれと照らし合わせてみると、この三人の学生というのが寺田の塾生であったということなのであろう。寺田の回想では、尾高は「逃がしてくれ」「学生三人ばかり出してもらえないか」と頼んだという。どのような言い回しかは知れないが、尾高はおそらく寺田に学生を付けてくれと依頼し、寺田がそれを承知して学生の選抜に及んだのであろう。
寺田は続けて副総長のことをこう書いている。
橋がこわれているからといって、(尾高副総長は)新京に引き返して潜伏していた。私は再々連絡があって、情況を詳知していたが、数カ月経つと、副総長も気を許したのか、満系学生あたりに顔を見られたらしく、その上、私がかくまっているという噂までたっていたようだ。私は副総長の自重をうながすとともに、自分の身にかえても護り通さなくてはならないと、学生にも言い含めていた。
このように、寺田はスタヴィスキーから「尾高副総長の行方」を厳しく尋問されたが、「知らぬ」と言い張っている。そして吉林から新京へと舞い戻ってきた尾高副総長と連絡を取りながら、尾高を「自分の身にかえても護り通さなくてはならない」と決意したというのである。
寺田が尾高をかくまっているという噂がたつところを見ると、尾高と寺田は近しいと思われていたようだ。そしてまた尾高は、寺田に対し全幅の信頼を置いていたようにも見える。そんなことから、寺田はソ連軍の侵入に備えて結成された建国大学戦闘隊の中隊長に任命されたということなのであろう。
こうして尾高亀蔵は新京でソ連軍・中国軍に捕まることなく昭和21年9月に帰国している。亡くなったのは昭和28年8月1日のことであるが、この時点で寺田はいまだ哈爾浜の収容所に収監されていた。尾高の葬儀には戦闘隊大隊長だった安倍三郎が参列して追悼の短歌を詠んだというが、もし戦闘隊中隊長の寺田がそれまでに帰国していたとしたら、おそらく尾高の葬儀には参列したことであろう。
寺田剛の引き揚げは、なんと尾高亀蔵の死後10年の、昭和31年7月のことであった。

取り調べは続く
終戦時建国大学の寺田剛を巡る話になってしまった。もう一度撫順収容所時代の寺田の取り調べおよびニセ調書問題に戻ることにする。
寺田は、ソ連軍が作成した調書に署名をしているのは事実であることから、調書を虚偽だと主張するのはかえってまずいと考え、「検挙」など自分とは関係ないことであり、そんなことを言うはずもない、通訳が私怨をはらすためにやったことであると弁明した。結局押し問答となりその日は帰されてしまう。
再び呼び出しがあった。ここで寺田は、自分は歴史学者であり事実を曲げることはできない、国民党関連の学生検挙については、取り調べ時の調書の確認で聞かされた内容と、実際に書かれた調書とは内容が真逆であると主張した。そして、これは憲兵隊に問い合わせてもらえば容易に分かることだが、大学の教官は「検挙」などという行為には関与しないわけだから、自分はこの事件には関係ない。ただ、もしも一教官として、また建国大学としての責任を負えというならば甘んじて受けよう、と主張した。 検察員は結局その主張を認めて、寺田の罪業は「大東亜共栄圏の思想を喧伝した。勤労奉仕をして関東軍に協力した、学生を弾圧した」の三カ条とし、それを寺田に示した。その後いく度か呼び出されて調書の原稿を見せられ、文字などの修正をして9月21日の呼び出しをもって取り調べは終了したのであった。
その後に部屋替えもあった。また「担白を援助する」と称し、「担白」しない人たち対し、「援助」などとは名ばかりの、怒号や罵声による「吊し上げ」同様の「援助者」まで登場する。「アクチーブ」といい、こうした「援助者」といい、当局の側にすり寄って、「自説」を曲げない人たちに対し悪口雜言を浴びせる役目を買って出て点数稼ぎをする連中はいつでもどこでも存在する。「援助者」はあることないことを言い立てるのである。開催された集会では、「援助者」だけでなく、「担白」を済ませた人たちが、「今度は他人の検挙で功績(?)」をあげようとばかりに事あげをした。多くの収容者が、こうした怒号や糾弾に遭い、それに屈して心ならずも罪を重くしたことであった。自殺者や未遂者も多く出た。

訪中議員団の視察と李徳全の訪日
昭和29(1954)年10月には北京訪問中の国会議員の視察があった。顔は合わせることはできなかったが、議員からは「何々県の方はおられませんか」とか「もうしばらくですから頑張って下さい」などと声をかけられた。収容者の中には、議員団に背を向ける人、睨み返す人、しょせん選挙運動だと言い捨てる人もいたが、寺田は、「はるばると海を越えて見舞ってくれた議員団」の声掛けに「涙で眼がうるむ」のを感じながら、一々目礼をしたという。収容所では斜に構えたスタンスを取っているように見える寺田だが、こうした視察団に対する態度をみると、礼儀・礼節を重んじる姿勢がよく感じられる。
またこの頃、ラジオ自由日本放送のニュースにおいて、中国衛生部長で中国紅十字会会長の李徳全が訪日していることを知った。この訪日は10月30日のことで、李は日本政府に対し、「われわれの名簿」つまり留守家族の待望する「戦犯名簿」を手渡したのである。寺田たちはこの事実を帰国後に知った。
「戦犯名簿」が家族に届いたのであろうか、郷里から続々と便りが届くようになる。寺田の元にも弟からの手紙がきて家族の消息も少しはわかった。弟に次いで母や妻子からの便りも届く。慰問品も届けられた。同室の収容者と手紙を見せ合い、送られてきた品物を分け合って楽しんだ。
返事を書くのだが、どのように書いたら管理所の検閲に通るかと考える。社会主義的なことを書けば郷里から「赤くなった」と思われてしまう。運動の時間に同じ収容者の返事を見せてもらうと、日本政府に戦犯名簿が届けられたことでそのなかに自分の名前が含まれてあり、来年の春には帰国できそうだからその準備をしている、といった内容が大方であった。ただ、こうした戦犯名簿が日本政府に届けられたと報道する新聞は見せられなかったし知らされもしなかった。
昭和30(1955)年を迎える。片山哲を団長とする慰問団もやってきた。この時は全員が運動場で出迎えて歓迎し講話を聞いた。こんな日には、通常は月一度の髭剃りのところを直前にも髭がそれるということもあってありがたかったという。「歌ごえ運動」の関鑑子も慰問にきて、収容所で盛んに歌っていた労働歌や日本の歌の歌唱指導もしてくれた。二部合唱・四部合唱までも練習した。

建国大学国民党事件を題材に創作「美しき青春」
3月になり管理所の指導体制が変わった。指揮の体制を一本にして「学習委員会」が成立した。その下に、学習・運動・文化の三部門が設けられた。「学習委員」は、尉官組(6)・佐官組(2)・将官組(1)と、人数に比例して選挙で決定された。収容所には武部六蔵総務庁長官、その下で働いた総務庁次長古海忠之(ふるみ ただゆき)もいて古海は委員に選ばれている。
学習委員会の目的は言うまでもなく罪を認めることを促進するところにあった。委員長の挨拶には、「私たちの自由な意志により学習委員会の設立を見た…」と述べられたが、管理・指導はもちろん収容所長のもとにあった。14人のうち11人が役に就いたが寺田には役が付かなかった。周囲のものが心配して何か役を付けようとしたが、寺田本人は無役が希望でもあった。寺田の言では、「学習に積極的でもなし、落伍者を吊し上げるでなし、…のらりくらりして、歌ばかり歌って」いたから当然と言えば当然であった。寺田は「監獄の中で出世したいと思わない」のであった。本人の回想では、「共産党の政権下では、あまり積極的でないインテリは、いつもその能力だけを忙しく使いまわされて、重要な地位につけない」と書いている。寺田もその口であるが、本人が重要な地位に就きたくないという「消極分子」だったので、それで満足というわけであった。いかにも寺田らしく、いささか韜晦気味に見えるが、実によく時代を見据えた行き方生き方であったと思う。だからこそ、こうした客観的で対象的な回想記を書くこともできたというわけであろう。
収容所の学習では「創作活動」が奨励された。収容者はあまり気乗りがしなかったが、当局側が何やかやと指導・誘導したことから全員が創作に向かうこととなった。もちろんその目指すところは、「罪を認める」「その認識を深める」というところにある。寺田はといえば、「美しき青春」と題して、建大時代、国民党事件にかかわって拘束され、獄死した王用中の埋葬の日の光景を書いた。王は康徳9(昭和17)年3月に他の学生と共に検挙されたのであるが、翌年4月判決前に獄中で亡くなったのである。作田荘一副総長はこの事件で引責辞任となり、かわって尾高亀蔵中将がそのあとを襲って就任したことはこれまでに繰り返し述べた。
このとき寺田は、新田伸二嘱託(塾訓育)・吉川武徳助教授(塾訓育・武道訓練)とともに監獄との交渉や棺桶・埋葬のために奔走したのだが、この時の体験をいささか脚色して書いたものだという。「なかなか面白い短編小説」と寺田も自負するこの創作は優秀作品に選ばれている。
この発表会での出し物は戦争の残虐性について書かれたものが多く、「小説の発表会」から戻ってきたときにはみなは陰鬱な顔をしていた。それは「リアリズム文学」であり、というよりむしろ収容所での「思想表明」の色彩が濃いものとなったから、これら創作活動は、収容者の思惑が交錯していて決して気持ちの良いものではなかったのである。ところがこの寺田作の「美しき青春」は、創作でありながら実際の事件を題材にしていることから興味関心を持って迎えられた。
ところが収容所本部はここぞとばかり、実際に在ったこの「学生検挙事件」を利用しようとし追求しようとした。本部から呼び出された寺田は、これは「小説」であり、寺田の「罪業」とはまったく関係がないことなどを述べたのだが、 本部はこの建大学の生検挙事件についてさらに詳細を探ろうとしてくる。「正しい返答をしないのであれば応分の批判をうけるであろう」と脅してもくる。寺田は、これは実際の事件を題材にしてはいるが、あくまでも「小説」であって事実ではないと繰り返し弁明した。しかしながら、当局はそれでも寺田がスパイを使っていたと疑って調べてくる。当局の担当者は建大の学生の写真を見せて、この学生を知っているかと尋ねてくる。ところが当局は今現在の写真を見せて尋問するわけだから、早や10年も経過していて、それがだれかも識別できないのであった。
このように収容所では、隙あらば、満洲国時代の日本人の「罪業」を確認しようとしてくる。寺田にしてみれば、この建大事件を題材に創作を試みたのだが、かえってこれが逆手に取られて、その事件との関りを蒸し返され、尋問される事態に至ったのであった。

日本からの慰問団
李徳全の訪日・戦犯名簿引き渡しにもかかわらずなかなか帰国の兆しは見えない。名簿引き渡しで希望がほの見えたからこそ、望郷の念はいやおうなく高まってくる。取り調べもおおむね終わり、公安局長からは、遠からず帰国の日は来る、ただその時期は「その人の罪業と学習の態度による」との講話もあった。引き揚げは日程にあがったということは了解されたものの、その時期は収容者の「担白」次第であると、その首根っこを押さえられたものでもあった。
日本映画の鑑賞会も開かれる。それには収容者だけでなく職員や警戒兵、それに職員の家族も参加した。平素は隔離されて見かけることのない愛新覚羅溥儀・溥傑や張景恵国務総理・曲乗全四平省長・濱江省長王忠直・蒙古の正珠爾札布少将らの顔も見かけた。左側に満洲国政府の満系の大官が座り、右側に武部蔵六総務長官、その右腕の古海忠之次長がいて、「さながら満洲国政府撫順別荘」といった感じだったと寺田は書いている。ちなみに張景恵国務総理は名目上だが建国大学総長である。
秋になり都議会議員の一行が慰問にやってきた。型通りの行事を終えたところで寺田は同じ収容者の中本元検察官といっしょに呼び出しがあった。中本は寺田の家のある練馬中村橋のご近所であった。面会に行ってみると拓殖大学教授で都議会議員の宮瀬睦夫であった。宮瀬教授は寺田の母からの依頼でやってきたといい、母親の元気な様子も話して聞かせてくれ、三人での写真も撮ってくれた。おそらく母親に届けられるのであろう。寺田はこれが「監獄生活の中で最も嬉しかった一時であった」と回想している。
獄中ではこうした楽しいひと時もあったが、部屋に戻ってこうした話をすると、元哈爾浜高等検察の男からは、「キサマなんか極反動だ」「兇悪な戦争犯罪人ではないか」と面罵されたりした。いつ帰れるかも知れぬ極限状況の毎日であり、日本の家族の消息を聞くことができた寺田たちに対するやっかみ感情もあったのであろう。いずれにせよ、みな平常心ではいられないのである。
寺田はいわゆる「優等収容者」ではなかったからときにひどい扱いもされた。寺田は作曲や歌唱指導などもうまかったので、ある時舞踊班で踊りの出し物をするにあたり寺田が作曲を依頼された。そこで作曲をして学習委員に見せたところ、「キサマみたいな意識の低い奴が作曲するとはなにごとだ」と却下されたという。寺田は、収容所では図書委員の助手・新聞解読の助手などを務め、実質的に能力を使う仕事をやっていたが責任ある地位には決して就かせないという対応であった。そして寺田も意識してそのようにふるまっていたようにも見えるのである。

昭和31年の瀋陽・撫順「学習参観」
昭和31年の2月、全員集合の指示が出た。所長から、瀋陽および撫順の「学習参観」を実施すると告げられた。何班かに分けての参観であった。獄外に出るのも久しぶりである。瀋陽では工業博物館・鉄工場・鋳物工場などを廻る。二日目は大青村の参観用と思われる生産合作社、労働者の住むアパートなど工人村、小学校を参観し、東陵を参拝した。三日目は博物館の見学で、寺田はここで専門の東洋史の簡単な講義をした。さらに和平路の百貨公司・新華書店・工業大学・体育宮と廻った。
こうしたなかでも、工場見学の説明の後、収容者の仲間が必要以上に発言を求め、「涙を流して謝罪する」姿がみられた。収容所生活が長く続くなか、平常心ではいられず神経が刺激されるということもあるのかもしれない。ただそれは寺田の目には、管理者当局の「覚えめでたき」を期しての行為であると写った。そして、こんな時にはかならずアクチーブが後方に立って、誰が積極的に発言し謝罪したかを監視監督しているのだ。
ついで撫順の参観があった。石油工場、石炭露天掘り、平頂山事件で生き残った人の話を聞いて養老院を見学した。

北京など関内への長期見学旅行
3月になり「前回同様認罪が目的」の参観が実施された。ただ今回は長期の参観である。まず第一組の参観者選抜組が発表される。この選抜組には寺田も含まれていた。長期の参観旅行ということもあり、これは「帰国の第一組」にあたるのではないかともささやかれた。
夕方に、「獄門」つまり収容所の門を出た。行先や期間は知らされていない。撫順城駅からの列車は、なんと硬座ながらも寝台車であった。そして選抜組は囚人番号のない人民服を着て出発できる。寺田はようやく「21号」から解放された。それが何よりうれしかったという。
どうも列車は北京方面に向かうようだった。錦州から山海関、そしていよいよ関内に入る。寺田は建国大学在職中に関内へ出かけることはなかったが、今回こうして、「囚人の参観旅行で行くとは」と、奇妙な気持ちであった。
天津を経て北京に到着した。北京駅からバスで宣武区の訓練所に到着した。翌日からは紡績工場などの参観であった。また中央民族学院・精華大学・万寿山などの見学をした。民族学院は少民族も含めた多民族の教育に配慮した教育機関で、たとえば回族のための礼拝堂やラマ教徒のための経堂も設けられ、豚肉を食さない民族のための配慮もなされていた。寺田も建国大学時代に、豚肉を食べない回教徒学生のために別の料理を準備したこと、ただそれもなかなかうまく運ばなかったことなどを思い出したりした。
仏香閣の広場ではアコーディオンの演奏があったが、それに合わせて仲間がおどるのを見て寺田は、「本当に楽しいのだろうか、単なる自己陶酔か、もしくは踊ったほうが有利だから踊るのだろうか。仏香閣の仏様がご存じであろう」と皮肉っぽく書いている。また万寿山頂上の仏像の鼻が欠けていることについて、「これは北清事変時に英仏連合軍のしわざだ」という説明を聞くと、「帝国主義者の罪だ」といって「自己批判していたりこう者がいた」とも述べている。醒めた目の寺田にはどうしてもそのように見えてしまうのであった。
このように寺田は、抑留・拘留時代を通じ一貫して冷静なまたシニカルな姿勢を保ち、斜に構えた態度をとり、客観的なまなざしで収監者側当局を見てきた。だから、このようにソ連や中国側当局に対して、時に必要以上に媚びている仲間の態度をみると悲しくなるわけである。ここには、寺田剛が研究者として客観的に物事を見るという職業上の性格と同時に、満洲国および建国大学への熱い思いや思想・感情を容易には投げ捨てない、という強固な姿勢、言ってよければある矜持のようなものを感じる。
次の日は官庁ダムの見学、これを終えて北京では王府井のデパートにも行った。夕食後は「抗訴中国侵略米帝気球展」に出かけた。この見学に対する感想会も開催された。技術畑出身の片岡さんを中心に会が持たれた。展覧会の性格上、技術的な話題が多く出されたが、ここでも例によって若い兵隊組を中心に、「盛んに米帝国主義の暴虐」とか中国を侵略したことへの「謝罪大会」が繰り広げられた。そして仲間の幾人かが米国帝国主義への抗議文を書いたのだっ たが、果たしてその文章が人民日報や光明日報で報じられた。
帰りのバスで、車窓から見た映画「太陽のない街」の看板に心を動かされた寺田は、ふと文理大出身の「学習委員長」に、映画の舞台が少し似通っている東京小石川の町々のことを話しかけたのだった。ところがこれが「油断」のもとであり、「学習委員長」はやにわに立ち上がって、「皆さん、この厳粛な空気の中で、映画の話をしている人がいます。もっと真剣に反省しましょう」と訴えた。万事こんな調子であった。この件は宿舎に帰ってからも蒸し返され、繰り返し批判された。寺田はしかたなく「自己批判をしておいた」のだったが、金輪際この委員長とは口をきかなかったという。
北京最後の参観は故宮博物館である。そのときは敦煌壁画展を開催していた。日本からの出品も一部あって懐かしく鑑賞した。夜は「感謝別離大会」が開催された。例によって自分の罪業を訴え中国人民の寛大な扱いに感謝するという発言が相次ぐ。なかには涙を流して告白する人もいた。もちろんアクチーブは後方で、挙手する人や発言する人を観察している。こうした状況は上級に報告されるし報告しなければならないのであった。

武漢、杭州、上海
北京の次は武漢である。武漢の宿舎は合作社の職員訓練所だった。到着して長江大橋建設の苦心談の講演があり、そのあとは武漢医学院の見学。街はまだまだ建設途上であった。日本軍がいた場所の工事では白骨が累々と出たという話になったとき、例の謝罪発言が相次ぐ。こうした場面の講演があると必ず次々と謝罪発言がでるのである。
次は杭州、江南の春の旅程である。旅館での食事もこの地方の産物を生かしたものが出されて美味しいものであった。旅館の待遇もよく、ベッドは柔らかい布団、トイレも水洗、呼び出しベルもあったりして、中国がいかに「進んだ国」であり日本が「遅れた国」であるかと実感させられる。西湖の見物、舟遊び、蘇東坡ゆかりの亭や碑文もみた。また南宋の武将丘飛を祀る廟や霊隠寺も参観した。
杭州の次はいよいよ上海である。新亜大酒店が宿泊所、バストイレ付きである。中国側の待遇はこのように良くて、中国がいかに先進的な国となったかを喧伝しているようである。上海では公私合営ゴム靴工場・紡績工場・広済大学・日ソ友好館など多くの施設の見学にまわった。曹楊新村では20歳ほどの少女に見える女性が村の概況を説明してくれる。この村の責任者だとのことで、「新しい中国の社会」をこのように次々と見せてくれた。
上海の次は南京であった。国民党下の刑場だったという雨花台に行く。いまでは「殉難烈士之碑」が建てられてあった。花環が捧げられ、代表が弔辞を読んだ。ここでも「烈士たちを殺したのはわれわれ帝国主義者である」といった自己批判が飛び出してくる。文化宮では「歴史衣装展」を観覧した。玄武湖・中山陵なども参観した。南京では桜が咲いていて懐かしくうれしい気持ちになった。ただそうした感慨を口に出すと、「民族主義者」とか「帰国思想」だとかと批判されるのでここは黙っていた。
上海から天津へ向かう。衣(ころも)部隊の兵士たちは、「済南で下車して市民に謝罪させてもらいたい」と申し出たが許可されなかった。衣部隊というのは、山東省の済南に司令部があった第59師団司令部のことで、秘密作戦のための兵団文字符が「衣」であった。山東省で八路軍の掃討作戦を展開した。終戦前の6月に満洲にはいり捕らえられる。終戦後将兵はシベリア抑留となったのだが、それは衣部隊の活動が暴露されたためであったという。
註:この「衣部隊の活動」を暴露したのは衣の下士官国友俊太郎であったという。そしてそのために衣の兵隊たちはシベリア抑留となった。国友は収容所で「文化部長」「委員長」などをやっていて、「監獄内で権勢の地位について威張っていた」と寺田は回想する。17p
天津をあとにした列車は一路北上する。行先は、「そろそろ帰りたい」と思い始めていた撫順ではなく、思いがけなくも哈爾浜であった。哈爾浜では中央寺院手前の黒龍江旅社が宿舎である。哈爾浜の見学は、亜麻工場・はるぴん工業大学など、夜は傅家店に出かけた。
哈爾浜からはふたたび列車で南下、7年を過ごした「懐かしの」新京(長春)へ。旧関東軍指令部・三中井百貨店などなどを通過する。そして朝食は、元中央飯店で今は国営の長春食堂でとった。寺田たちが建国大学在職中によく宴会した懐かしい場所だった。そこである婦人から、日本人でしょ?どこから来られましたか?と日本語で尋ねられたこともあった。戦後の混乱のなか、「満人の妻」になったということなのであろうか。班長があわててそれをさえぎった。人民広場と名前を変えた大同広場に行く。ここでは満洲電電・満州中央銀行・首都警察庁など、名称を変えてはいるが同じような職種の事業を展開していた。
大同大街をさらに南にいくと、白山公園、牡丹公園があり、その近くには旧タイ国公使館があった。終戦時に寺田が連行された場所である。さらに協和会本部・大同公園。この協和会本部では映画会があったり講演会が開かれたりした。そしてここは建大教授で昭和15年に死去した君山稲葉岩吉の葬儀が営まれた場所でもあった。そうした場所を寺田は、「今はここで囚人として参観に来ているのだ。皮肉な運命だ」との思いを深くしている。その後東北地質学院に行ったがここは元は宮廷府の建設現場である。皇帝溥儀が住む予定の宮廷府だったが、その皇帝溥儀は今は捕らわれの身となって寺田たちと同じ撫順監獄に収容されている。
さて一行はふたたび長春食堂で昼食をとり、孟家屯の自動車工場へ向かう。この駅の近くには結核専門病院の満鉄保養院があった。寺田は塾頭時代に建大の学生が入院したときよく見舞いに出かけた場所で、よく見知ったところであった。寺田はこのように塾頭の仕事などを通じてよく学生の面倒を見てきたのである。
夕方に見学が終わる。工場から数キロ離れた畑の中にレンガ造り建物が崩れた状態で残されてあるのがみえた。満洲時代に獣医畜産大学の創設に尽くした「安達老人」の話だと、それは「関東軍の獣疫研究所」で、終戦の際に爆破して破壊し、「特殊任務を糊塗したものだ」という話だった。
この「獣医畜産大学」は満洲国立新京畜産獣医大学のことで、満洲国の畜産業や馬疫研究のために創設された大学である。「関東軍の獣疫研究所」とは「馬疫研究処」であろうか。軍の機密研究なども行われていたことから終戦時に爆破されたのである。
「安達老人」とはこの初代処長の安達誠太郎である。なおこの馬疫研究處処については平成18年度の科研報告書『戦前期中国東北部日本語志料の書誌的研究』に「『馬疫研究處研究報告』 解題および目次」を書いて収載した。安達誠太郎についてもここに略歴を記した。寺田は「安達老人」とさりげなく書いているが、撫順収容所にはこうした満洲国で重要な職務に就いた人物が数多く収容されていたのである。

鞍山へ
新京から撫順に帰るものだと思っていたら列車は鞍山に向かった。鞍山製鉄公司の見学だった。鞍山製鉄所では満洲・満洲国時代にも盛んに採掘され生産高を誇っていたが、説明者の話では、この今の製鉄所は「日本帝国主義の遺産を受けついだものではない」との説明がなされた。それもそのはずで、ソ連が進駐したあと、ソ連が引き揚げるに当たり、製鉄所のめぼしい施設や機械などは根こそぎソ連に運びこんだのである。こうしたソ連軍の「火事場泥棒」の類は戦後満洲の各地で見られたことであった。それは収容所で同室の、鞍山に駐屯していた江頭憲兵隊長が使役に出された時の体験談でもあった。
こうして東北三省から河北・山東・河南・江蘇・浙江・湖北・湖南・広西と11省の6400キロを巡る大巡覧の旅をようやく終えたのであった。そしてこの参観旅行の第一陣はそのまま引き揚げ第一陣となったのである。
帰国に向けて
5月の末、撫順の収容所に戻った寺田たちに全員集合の合図がかかった。そこで「全国人民代表大会常務委員会」の決定が発表された。それは、中国に拘留中の戦争犯罪人は各種の犯罪行為を行なった者であるが、この間の中日両国の友好関係の発展、また彼らが拘留期間中に、程度の差はあっても改悛の状を示している、などの理由から、この「戦争犯罪人」にたいして寛大政策にもとづいた処理をすることを決定したというものであった。
戦争犯罪人をいくつかの等級に分けて発表されたこの決定を聞いて、寺田は、第一条の「主要でない日本戦争犯罪人や改悛の状が著しい犯罪人に対しては寛大に処理し起訴を免除することができる」という条項に自分は該当すると思った。この発表のあと部屋に帰り感想会がもたれた。みなは自身が起訴猶予になると思っていたのだが、そのように言わない方が無難だと思い、「自分は罪深き者であるから起訴免除になるとは思わない」と型どおりに慎重な感想を述べた。寺田はそのような感想を述べるのが嫌だったので、「私は帰れると思った」と正直に答えた。すると委員長は、寺田さんがそう思うのは当然かもしれないが、もっと認罪を深めないといけないとしかめ面で苦言を呈したという。
そして次に、先の参観旅行の感想文を書くこととなった。『人民中国』かどこかに特輯號が出るとのことである。寺田は杭州の参観が担当となった。これまで「学習委員会」では、「半ば落伍分子」扱いであった寺田が、今度の感想文執筆にあたっては「学習委員」に選ばれた。
6月21日になり、外出するから着替えるようにとの指示が出た。裁判である。一行は撫順の街中の大講堂に集合した。第一回・二回・三回の国内旅行組ごとに並ぶ。演壇には所長ほか管理所職員が並んでいた。やがて最高検察院の検察官から第一条に基づく「起訴免除の決定書」が読み上げられ、その名前335名が呼ばれることとなった。予想通り寺田剛の名前もそこに含まれていたのである。参観旅行第一回の仲間もほとんどが引き揚げ組に入っていた。これも予想通りであった。
この場で管理処から中国紅十字会への身柄の引き渡し式が行なわた。そして帰国の準備が指示されるとともに、日用品と小遣い50円が支給されることが申し渡された。収容所からついに「釈放」されたわけである。支給された人民服と人民帽を身に着けて「交歓惜別会」が開かれた。回想記には、この「お仕着せの人民帽・人民服のまま帰還した著者」とキャプションを附して引き揚げ時の寺田の写真が載っている(「第七編 終末」の扉)。地区別の班分けがされ、寺田は東北組の小隊長を命じられた。
「前へ前へ」の歌に送られて「獄門」を出る。先の長期巡覧の旅行の時には、かりそめの「獄門」出立であったが、今回は正真正銘の「獄門」出立である。撫順からは硬座の寝台車に乗っての出発だ。途中天津の恵中ホテルに一泊、夕食は天津飯店でご馳走を食べた。
ここで中国紅十字社から日本赤十字社へと身柄が引き渡された。中国側から日本側へとついに渡されたのである。天津の街では、支給された5000円を持って書店に行き、小説や物語・史学研究の雑誌などを購入した。「白毛女」も購入したいと思い新華書店まで行ったのだが、そこには豪華本しかなかったので、発売元の住所を尋ねてわざわざバスに乗り買いに行った。またデパートでは子どもや夫人へのお土産の布地なども購入した。この天津滞在の数日間、寺田は街をずいぶん歩いてまわった。もとよりの強い探求心・観察力を発揮したのである。
宿舎で税関検査を受ける。終戦から10年以上経過したこの時期でもあり、帰国に当たっての禁止品はほとんどなかった。ただ地方新聞や地図は持ち帰りできなかった。
7月1日、太沾から興安丸に乗船した。撫順で亡くなった佐々木中将・平井大佐らの遺骨を先頭に船に乗り込んだ。船員は口々に「ご苦労さん」「ご苦労さん」と温かい言葉をかけてくれた。この言葉も衷心からの声掛けであったであろう。寺田は「タラップを力いっぱい踏みしめて」船に入った。甲板に出て見送りの管理所の職員に「さようなら!お世話になりました」と叫んだ。
船中では、東北地区の小隊長に選ばれた寺田剛も含めた小隊長全員が集められて指示が出された。それは、新聞や放送記者に対して管理所の内容は話さないこと、話すにしても「よいこと」だけを話し、あとは「知らぬ存ぜぬ」でやり過ごすこと、などであった。濃霧でいささかの時間を過ごしてしまったが、船は確実に日本に日本に近づいていく。やがて海上保安庁の船が出迎えにやって来た。これで日本への引き揚げが実質のものになったのである。着船したのは舞鶴港であった。
かくして、昭和20年12月にソ連兵に連行された寺田だったが、虚偽の調書のためにシベリア送りとなり、さらにそのせいで昭和25年7月にはシベリアから撫順収容所に移され、昭和31年7月ようやく日本に引き揚げることができたのであった。

むすび
終戦時、ソ連軍の満洲国南下に対して結成された建国大学戦闘隊の中隊長に任命された寺田剛について書いてきた。この建国大学戦闘隊は重大な決意であったと思う。まがりなりにも教育機関である大学が強力なソ連軍の南下に対抗して戦闘隊といういわば決死隊を組織したわけである。
当時の建国大学は、尾高亀蔵副総長のもとでの一枚岩と言うわけではなかった。康徳9(昭和17、1942)年の抗日運動による学生検挙の責任を取って辞職した作田荘一副総長がとちがい、尾高亀蔵の副総長就任については学内では不満の声も上がっていた。そんな尾高体制のもとでの建大戦闘隊の結成であった。こうした実情もあってのことであろうか、この戦闘隊への参加不参加は教職員各自の随意とする、との留保が附された。この戦闘隊の責任者に任命されたのは、大隊長兼第一中隊長に安倍三郎、第二中隊長が西元宗助助教授で、寺田剛が第三中隊長に任命されたわけである。
わたしは、このような重大な決断である建国大学戦闘隊の大隊長・中隊長に指名された教員はどういった理由からであったのかと知りたくおもい、今回は寺田剛の事績を追ってみた。そして寺田の建国大学での仕事内容や、終戦時の動向、ソ連軍に連行されての取り調べとシベリアでの抑留、さらにその後に続く中国撫順収容所での拘留時期をについて、『建国大学年表』や寺田の回想記『虜囚第21位号 中共幽囚記』をもとに検討してみたのである。その結果、いくつかこれまであまり知られてこなかった事実もいくつか明らかになった。
一つ目は、寺田が尾高副総長と近しい関係にあったということである。いや、「近しい」というわけではないかもしれない。だが少なくとも尾高副総長は寺田を大いに頼りにしていたということは言ってよいであろう。戦後8月18日に招集した建国大学の会議で尾高は戦闘隊を解散し、建大学生を日本に無事帰還させるという方針を確認したうえで、千葉胤成教授を副総長代理に指名し、自分自身は吉林方面のゲリラ戦に出たのであるが、その際尾高副総長は寺田に対し、ソ連軍が入城すると自分は殺されるから逃がしてくれと言い、寺田の塾生3名を出してくれないかと頼んだ、と寺田は書いている。
その後吉林でのゲリラ戦は不首尾に終わり、尾高はひそかに新京に戻って潜伏したのだが、その時も尾高は寺田と再三にわたって連絡を取ったという。寺田はそんな尾高副総長を、自分の身にかえても護り通さなくてはならないと学生にも言い含めたとも書いている。
終戦時に寺田が、南下したソ連軍に同道した元建大生スタヴィスキーから「尾高副総長の行方」を執拗に尋問されたというのも、寺田なら尾高副総長の行方を知っているだろうと推測されたからであろう。寺田と尾高が近しくあるということは衆目の認めるところだったのかもしれない。
実際のところ、寺田が尾高副総長のことをどのように考えていたかはわからない。副総長は大学では寺田の上司でありいわば上官に当たる。「主君」と「臣下」という儒教の「君臣の教え」に則った対応だったのであろうか。寺田は、張鼓峰事件の司令官で陸軍中将でもあった上司の尾高亀蔵が窮地に陥って、寺田剛だけが頼りだと言ってやってきたとき、そんな寺田は見捨てるわけにはいかなかったのである。
二つ目は、収容された寺田が回想文で再三書いているように、満洲国時代の自分自身を、戦争に負けたからと言って、また相手国の捕虜となったからと言って、相手国の主義や思想におもねる態度は見苦しいと強く考えていたことである。例えば、収容所でアクチーブになって捕虜を見張る側に立つとか、行事や見学があるごとに過剰に反省の情を見せたり泣いて改悛の状を示したりすることは、何といってよいか、潔しとしない、という姿勢を取り続けたということである。寺田は、「道義的世界の建設を目標とした建国大学に殉じて捕らわれた」と書いており、そういった姿勢を決して投げ捨てようとはしなかった。それが寺田の矜持であった。
そして三つ目、これは戦闘隊の中隊長指名とは直接つながるわけではないが、ソ連軍の南下に同行してやってきたスタヴィスキーが以前に寺田の塾生であったこと、そして康徳11(昭和19)年夏の学生勤労奉仕隊建国大学隊幹部の第二中隊指導官として吉林省金珠に滞在したとき、スタヴィスキーの規則違反の喫煙をとがめたが、その態度も悪くビンタを張ったこと、スタヴィスキーは成績も悪くて進級できなくなった事態を寺田のせいだとして逆恨みし、あげくのはてに新京の取り調べで調書のでっち上げを行なったという件である。その調書のせいで寺田はシベリア抑留のあと撫順収容所でさらに6年余りを過ごさねばならなくなったわけだが、大学で塾頭を務めた寺田は、学生には時に厳しく接する、いってみれば熱血漢であったのかもしれない。
こうしたことを考えあわせてみると、8月11日に開催された秘密緊急教職員会議における尾高亀蔵副総長の出席教員への意見聴取に対して、もしかしたら寺田は、建国大学を守るべき、建国大学に殉じると書いたのかもしれない。そうでないとしても、建国大学の意義や理念を再確認するような意見を記して提出したのかもしれない。そんなことから、寺田と近しいと考えていた尾高副総長が、寺田を中隊長に指名したのではないかと考えてみたのであった。こうして寺田は、新京、シベリア、撫順と、戦後11年もの間、抑留の生活を送り、昭和31年7月に引き揚げたのであった。
2026年3月10日 記